講題「家庭の成就」
ただいま紹介を受けました佐々木玄吾と申します。宜しくお願いいたします。今回、私は家庭の成就というお話をしたいと思ってまいりました。
「家庭の成就」、これは私の四十年前からの課題です。私は東京で小学校の先生をしていました。そして結婚して日野に家を建てました。女の子が二人できまして、それが小学校へあがるかあがらないかぐらいの時だったと思います。毎月、私の恩師である細川先生に来ていただいて、家庭で法話会を開いていたのです。私は一所懸命その話を聴いておりました。正信偈の話でした。私はそれを一所懸命聴いていたのです。そんな時、一枚の葉書が私のところに届きました。九州にお住まいの先生からの便りです。その中に「君の家庭が成就することが何事よりも大切である」と書いてありました。
一、先生からいただいた課題
「君の家庭が成就することが、何事よりも大事である。」
君の家庭が成就することが何事よりも、君が何をしようとそれよりも大切である、とそのような一枚の葉書を頂きました。私はそれが非常に心をうちました。もうなんといいますか、今まで私はそう思っていなかったからです。私は何事よりも仏法が一番大事だと思っておりました。それなのに「君の家庭が成就することが何事よりも大事である」という葉書を頂いてもう私はびっくりいたしました。仏法が一番大事なのではないのか、一番大事なのは家庭が成就することなのか、と非常にドキッとしました。それでその後、先生の話を聴きずっと考えてきました。
だんだん月日が経ちまして私も今七十五歳です。ちょうど娘がその時の私の歳になっております。昨夜は娘の家に泊まって、今日ここに来ているのですが、娘に旦那さんがいて子供が一人います。其の家に泊まってやってきたのです。そうしてみてみるとですね、私も娘たちに君の家庭が成就することが何事よりも大事であると言いたく思います。それは、前の者が後の者に伝え次々とめぐって、教育というものはなされていくものだなあということを、つくづく感じるのです。
娘の家に行ってみますと、庭が草ぼうぼうなんです。草を取ってそれを整えてやりたいと思うのですが、なかなかできません。ちょうど私もそのように言われていたのですね。隣の人から土地を分けてもらって家を建てたのですけれど、あそこの家は草ぼうぼうで、草を取ればいいのにといつも思っていた、と言うのです。ある日私が一所懸命草を取って庭を整えているのを見て、やっと佐々木さんもこの頃自分の庭を、家庭とは庭ですから、庭を整理するようになって安心した、と土地を分けてくれた人に言われました。そういうように、やっぱりめぐってくるものだなあと思います。だから私は「草をとりなさい」とか「垣根を切りなさい」とかあんまり言わないのです。私の家内は見るに見かねてしょっちゅう、一所懸命鋏を持って切っていますけれどね。
しかし今回行ってみますと、綺麗に切ってあります。綺麗というまではいかない。いかにも素人が切ったという感じです。これはきっと娘と婿さんが切ったのだなと思い、聞いてみました。「だれが切ったのかい」と言ったら、二人で切ったと言う。よかったなあと思いました。この歳になって私は、どうしても次の人に伝えておきたいなあと思うことは「何事よりも家庭が成就することが大事である」ということです。それがひとつ。
二、子供にとって幸福な家庭とは何か
次に、子供にとって幸福な家庭とは何かという話をしたいと思います。
私が小学校の先生をしておりました関係で、家庭というか子供の教育に関心があります。とにかく子供は親を見て育ちます。アメリカに有名な詩がありまして、「子供は親の鏡」という詩です。貶して育てれば人をけなす子供になる。馬鹿だ馬鹿だと言って育てれば引っ込みじあんな子供ができる、」というベストセラーになった詩があります。(『子どもが育つ魔法の言葉』PHP文庫)それで子供にとって幸福な家庭とは何かを考えてみます。といいますのは私には孫がおります。孫を育てる。お節介なことをするとあなた方は思われるかもしれませんけれど、孫をちゃんと育てたいと思うわけです。子供にとって幸福な家庭とは何か。こういう本があります。アンドレ・モロアという人が書いた本です。
アンドレ・モロア 『結婚 友情 幸福』
『結婚 友情 幸福』という本があります。新潮文庫で河盛好蔵という人が訳した、もう古い本ですから書店にあるかどうかわかりませんけれど。それはどういう本かと言いますと、初めに、結婚について詳しく書いてあります。結婚とは決断だと。ある男が結婚したいと言う。やったらいいと彼の友達が言う。しかし、あの人はこういう欠点があるからもっと良いのが現れるかもしれないと言う。それなら止めておきなさいと言う。時期もきているから今を逃したらないかもしれない。じゃあやりなさいと言う。やったところでうまくやっていけるかどうかわからない。じゃあ止めなさいと言う。なかなかできないですね。しかしこの本には結婚とは決断だ、やろうと決断することが大事だ、と書いてある。そしてまあ結婚しました。
ところが、結婚生活は男女の恋愛感情だけでは長く続かない。全うしない。それが、だんだんと友情に変わって、そして本当に幸福な家庭生活ができるのだと書いてあります。これは是非とも読んで欲しい本なのです。その本の中で、子供にとって幸福な家庭とはどんなものであるかが書いてあります。それはどういう家庭か。子供というのは厳しい現実に向ってこれから生きていかないといけないですね。各人が自分自身の道を生きていかなくてはならない。そこに甘えは許されない。自分自身の仕事をやり遂げていかなくてはならない。世の中には確固とした規律というものがあるのであって、それを生まれ落ちたときから教えていかないと、非常に幻想を持った甘ったるい子供になってしまう。人生とは自分自身の道を、鉈(なた)を振るい斧(おの)を使って切り開いていかなくてはならない。その為には子供時代の家庭生活が大事なのだと一所懸命書いてあって、それには大事なことが五つあるという。
@ やさしい愛情
優しい愛情というものを持って育てなくてはいけない。優しくなくてはいけない。つまり、優しさの初めは母親です。子供は、お返しを求めない無償の愛を母親から学ぶのです。実際、優しい愛情を持って育てられると子供は、本当に人生は敵視する者ばかりではない、無償にそのまま私を受け入れてくれる人たちがいるのだということを信頼して、人生を肯定的に生きていく人ができる。それには優しい愛情に包まれて生きるということが大切なのだとそこに書いてあります。
振り返って自分自身の母親はどうだったかと考えると、私の母も九十六歳でこの間亡くなりました。半年くらいになります。考えてみますと、優しかったなあと思います。皆さんもそれぞれそう思われると思います。私の家は海が近かったので、海に入ると風邪を引かなくなると言って、夏になると海に行かなくてはならないと言い、夏休みになると毎日毎日海に行って泳ぐことを勧めました。色が黒くなればそれだけ元気になるのだと言って褒めてくれました。私の子供も母のところへ連れて行くと、海に行って泳げと言うのです。子供達は二人とも島根の海で泳ぎました。去年の夏休みには孫も海に行ったのです。海に行って泳げ、よく来た来年もおいでと言って、とっても優しい愛情をかけてくれたなあと思います。幸せな家庭だったなあ、優しい母親だったなあと思うのです。皆様もそう思われていると思います。父親はどうかというと、私の父親は早く死にました。四十八歳で肺結核で死にました。五十回忌をしましたからずいぶん昔に死んだのです。思い出してみますと、手先が器用で、凧とか独楽(こま)とか遊び道具とか夏休みの宿題を手伝ってくれて、そして学校に持って行って、上手に出来たと言って褒めてもらったりしました。本当に優しい愛情に包まれていたと思いますね。皆さんもそうだと思います。
A 確固とした絶えない訓練
次に確固とした絶えない訓練ですね。子供というのは生まれ落ちた時から訓練をしなくてはいけないのだとフランス人のアンドレ・モロアは言うのです。人生には守るべきルールがあるのだと。そこで甘やかして育ててはいけないのだと。そうしないと、その子供が社会に出ていくと厳しい現実と取り組んでいかなくてはいけないのですから、どんなことにも耐えるような、そういう訓練を子供に施さなくてはいけない、と書いてあります。私もそう思います。細川先生は保育園を始めておられて、そこで子供を見ていて、大体子供がずっとうまく育っていくのには、三つのことがちゃんと出来ていればその後一人前になれるのだと思う、と言っておられました。
それは何かと言えば、なんでも食べる。好き嫌いをしないで何でも食べるという訓練。そういうことを子供の時代にさせておかないと、好き嫌いのはげしい人ができる。これは嫌、これはもっと欲しいというのでは健康な食生活が成り立たない。次に、合掌できる。ありがとうございます。我今幸いにいただきます、と手を合わせることができる。それからですね。三つ目は、友達と遊べる。あの子は好き、この子は嫌いというようなのでは、これからはやっていけない。国際社会になってきて、よその国の人たちとも仲良くやっていかないといけないわけですから、そういう所に行って胸を開いて腹を割って一緒にやりましょうというような人に育てるには、小さい時の訓練があるのだと言われる。
B 公平さ
その三つ目は公平さ。子供が何人かいると、気に入った子と気に入らない子供がどうしてもあるという。しかし、公平に扱わなくてはならない。女の子を特に可愛がる。又、男の子を可愛がる。長男だからとか言っていると、うまくいかない。心の中にそういう感情があってもなるべく子供に見せないように、親はですよ。あれはいい子だなあと思ってもですよ。平等にふるまう。それは非常に大事だと書いてあります。
C 父親と母親の強い結びつき
そうしてですね、父親と母親の強い結びつき、夫婦が強い結びつきを持っているということが、本当に家庭が特に子供にとって安定するのです。そういう強い結びつきが大事である。しかしできるようで難しいです。だから結婚の最初に細川先生は言われた。君と結婚したのは失敗だったということは絶対に言わない、と。それは強い結びつきとはいえないのですから。あるいは、出て行けというのは決して言わない、と。細川先生いわく。私ではないですよ。先生は何回言おうと思ったかわからないと。なかなか言うは易く、行なうは難し。難しいのです。難しいのですが大事なのです。お手本ですから。子供にとって夫婦のありかたは。これは本当に大事です。
D 家庭の換気
その次は、家庭の換気。家庭の中は家族だけではよどむ訳ですから、そこへ大空から吹いてくる風、原っぱから吹いてくる風が家庭の中をスーッと通って、よどんだ空気を換気することが大事だと。アンドレ・モロアが言うには、家庭の中に芸術家とか宗教家とかそういう人を呼んできて、一緒にご飯を食べたり話しをしたりして、空気を入れ替えるということが非常に大切なのだと書いてあるのです。そこで私は思います。私たちは念仏者ですから、念仏を称える者の換気とは何だろうかと。
三、念仏者における家庭の換気
念仏者における、私たちにおける家庭の換気とは何かを考えてみる。念仏者における家庭の換気、つまり風通しをよくしなくてはならない。そこで家庭の換気ということの初めは、まず自己の換気、自分自身を換気しなくてはいけない。自分自身を取り巻く空気を換えてもらわなくてはいけない。
@ 自己の換気
それは蓮如上人が言われるように、こういう聖教を読むということが大事なのです。『聖典』にこういうことが書いてあります。八六八頁です。読みます。持っておられない方もありますから。門徒総会の時にもぜひ『聖典』を持ってきて下さい。「蓮如上人、仰せられ候う。「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」と、対句に仰せられ候う」と言われています。ところがいつまでたっても本棚にあって全然自分がこれを持って読み破らないから、蓮如上人から叱られる。叱られるという話をさっき住職がなさいましたね。この内に信を得た人は一人か二人かあるべきか、と言われたから皆びっくり仰天した。何百人もおられる中でそういう話です。
そこにどういうふうに書いてあるかというと、「同行・善知識には、能く能くちかづくべし。親近せざるは、雑修の失なり」(『聖典』八八一頁)と書いてある。我々の換気は「同行・善知識には能く能くちかづくべし」。同行とは善き友ということです。仏法の友達。善知識とは善き師ということです。同行・善知識に親しみ近づかないのは専修ではなく雑修なのだと。「同行・善知識には能く能くちかづくべし。親近せざるは雑修の失なり」と言って善導大師の『往生礼讃』に言われた。
「同行・善知識には能く能くちかづくべし 親近せざるは雑修の失なり」
『蓮如上人御一代記聞書』一五〇条
雑修とは色々なもの雑多なものを修める。雑修の失なり。失とは過失、過ち。「同行善知識には能く能く近づくべし。親近せざるは雑修の失なり」。それはどうしていけないのかと言うと、善導大師が礼讃の初めに書いてある。それは雑縁乱動して正念を失するからいけないのだと、色々な縁が雑多に起こって聞法会に出るという自分の約束が守れない。仕事が忙しいとか色々ありますよね。そういう雑縁、様々なものが乱れ動いて、お念仏一つに遠い、ただ念仏するという気持ちをなくする。だからいけない。それに対して同行善知識には能く能く近づくべし、と言われる。
赤尾の道宗に有名な言葉があります。「一日の嗜みには、朝つとめにかかさじと、嗜め。一月の嗜みには、近きところ御開山様の御座候うところへ参るべしと、嗜むべし。」(『聖典』八六四頁)一ケ月に一回ここで聞法会があるのですから、一ケ月に一回は光照寺に参ると嗜むべしである。あるいは一年の嗜みには御本寺に参るべしと嗜むべし。そういうことが善き師善き友に近づくということです。そういうことによって自分を換気する。自分を換気するとは、近づいて行って、そこで教えを聞くわけです。教えを聞く。その教えは「教は鏡なり」と言って、その教えは鏡なのです。私を照らす鏡なのです。私自身が何であるかが鏡を見ないとわからないのです。今日私はどういうネクタイをどういうふうにしているのかわからないのですが、鏡があるとわかる。私が何であるかということも鏡に照らされないとわからない。こういうことによって私が何であるかを知らせてもらう。これが自己の換気。
A 家庭の換気
その次に家庭の換気。細川先生が言われる。私は九州の人たちに言っておる。どういうことを言っているかというと厳しく言っていることがある。それは、夫婦で聞法しなさいということ。
ア 夫婦で聞法すること。
イ 家庭で讃嘆会を開くこと。
本当に、ここにもぜひ夫婦で来てほしい。私の娘が言うには「お父さんは夫婦で聞法しなさいと偉そうに言うけれど、たまたまそうなったのであって、あなたの力でもなんでもないのだよ」と。まったくそうなのですけれど、しかし心がけとして夫婦で聞法することが大事なのですよ。夫婦そろっている人は夫婦で聞法することは非常に大事なことで、「教は鏡なり」で自らの鏡として受け止め、自分はやっているかどうか考えてもらう。あの人はたまたまだからいいが私の家は違う、ではだめです。
次に自分の家で讃嘆会を開くことが大事です。それが家庭の換気になる。家庭で讃嘆会を開く。讃嘆会とは、皆さん御同朋御同行が集まって勤行し、自分の今の気持ちをお互いに話し合う。そういうことが換気になる。家庭で勤行することは、朝晩のお礼としても大事です。
そこで問題はこういうことです。問い。「お前は本当にそのようにしているのか」と自分に問うてみる必要がある。優しい愛情を持っているか。確固とした絶え間ない訓練をしているのか。公平さはどうか。私には過ぎ去ったこととして、やっているように言っているけれど、本当に同行善知識に近づいて自分を照らされているだろうか。本当にそうしているだろうかと考えますと、私たちは本当にそうしているとは言えないものを持っている。一応はここにこられた人たちは念仏者なのです。そして一応勤行もされ、先ほども皆さん上手に正信偈を称和されていたから、勤行もされ一応はそういうことを問題視されていますが、しかし本当にそうしているだろうかと再度考えて見ますと、聖人が言われたように「恥ずべし、傷むべし」(『聖典』二五一頁)というものを私たちは持っている。本当にやっているか。
「おまえは本当にそうしているか」
私たちはお恥ずかしいことですというものを持っているのです。「恥ずべし、傷むべし」というものを持っている。そして家庭の成就というのは既にもう私において解決された問題とは言えないのです。七十何歳までずっと聴かせていただいてきたというけれども、「本当にそういうことをしているか」と聞かれたら、「お恥ずかしいことで申し訳ないことであります」と言わざるを得ないものを私たちは持っています。
家庭の成就というのは、今すでに出来上がった問題ではなく、私の本当に目指すべき目標なのだ。私の願いなのだ。私自身はその道を今、一足一足歩ませて頂かなくてはならないのだということになる。つまり、やさしい愛情、確固とした訓練、公平さ、そういうものが私が現在更に取り組ませていただかなくてはならない問題ではないかということ。又、その取り組みのためには自己の換気が必要で即ち「同行・善知識には能く能くちかづくべし」が大切である。
そういう取り組みは「恥ずべし、傷むべし」という自己自身を照らされて、申し訳ない私であると懺悔するところから、自己の現実と取り組み、現実を逃避しない、現実を逃れない、現実に向かい合う人が生まれる。現実を逃避しないのが本当の仏法者なのです。仏法者とはここに来て何かいい気持ちにならしてもらい、家に帰るとグシャッとなるというのではない。家に帰ったらいよいよ現実に取り組むというのが本当の仏法者なのです。自分にはどういうことが課題としてあるのか。それを考えて子や孫を育てていく。それが本当の仏法者であるということを申し上げて、終わりたいと思います。ありがとうございました。
あとがき
本冊子は平成十七年五月二十九日、第六回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。
佐々木先生には毎月当寺で開かれている聞法会「大経の会」に隔月にご出講いただき、ご法話を賜わっております。そして当寺の毎年の護持会総会でも第一回目から連続して六回のお話を戴いております。又この様な冊子として発行するのは今回が三回目となりますが、これは護持会役員の淡海雅子様がご法話のテープ起こしをして下さった賜物です。
今回の講題は「家庭の成就」です。
今までも佐々木先生の「家庭の成就こそが何事よりも大切」とご法話のなかで受け賜っておりますが、今回のお話は特に感銘して聞かせていただきました。しかしその後の一年の経過で忘れてしまっていた記憶が、この冊子を手にした時に甦ってきました。冊子に纏めて戴いた方々のご努力に改めて感謝申し上げる次第です。
お話の中に「人生とは自分自身の道を、鉈を振るい斧を使って切り開いていかなくてはならない。その為には子供時代の家庭生活が大事なのだ」とあり、それには @やさしい愛情、A断固とした絶え間ない訓練、B公平さ、C父親と母親の強い結びつき、D家庭の換気、が必要と述べておられます。
いま青少年犯罪の増加、低年齢化、凶悪化が懸念されていますが、その原因の根っこにこの五つの要件を欠いた崩壊した家庭生活があると思われます。
昔はその内の幾つかは残っていました。私の生家も真宗ですが、妻の実家は農村の先祖代々から定期的に家で講を開いたりする、より典型的な浄土真宗の家庭でした。改築前は茅葺屋根で家の真ん中に大きな仏間があり、金仏壇がどーんと座っておりました。日中でも薄暗い部屋でしたが、昔から命の誕生も命の終結もこの部屋で、家族に見守られながら行なわれて来たと聞かされました。義母が亡くなった時、大きな蝋燭を何本も立てて親族みんなで念仏を唱えながら、湯灌をして挙げた記憶が思い出されます。そしてそこには羨ましい程の家族の絆があった様に思います。
いまは年に数回しか孫と接する機会はありませんが、遅まきながら少しでも子供達の家庭の成就と自分自身の換気に励まねばと思う次第です。
最後になりましたが、ご多用のなか原稿に目を通して下さいました佐々木先生、ならびに本文を纏めて頂いた淡海様に厚く御礼申し上げます。
平成十八年五月二十八日
第七回護持会総会にあたり 光照寺護持会会長 山田 恒
光照寺護持会が平成十一年に発足し、七年を迎えることは護持会役員、会員一人一人の信力の賜物と深く感謝致します。総会としては第七回を迎え、護持会法話冊子は今回で三冊目となります。これは光照寺の歴史、又、私達一人一人の人生のページに確かな歩みを刻んでいることでありますので、会員の皆様と共に喜び合いたいと思うことです。
本書は、昨年の光照寺護持会総会における佐々木玄吾師のご法話「家庭の成就」を活字として記録させて頂いたものです。
先生は教職生活を定年まで勤められ、現在、広島県北広島町(旧豊平)におきまして念仏道場の道場主としてご活躍されています。又、当寺の責任役員という重責を担い、隔月の「大経の会」に講師としてご出講頂きお育て賜っております。
先生は本書にて「家庭の成就というのは、今すでに出来上がった問題ではなく、私の本当に目指すべき目標なのだ。私の願いなのだ。私自身はその道を今、一足一足歩ませて頂かなくてはならない」と語られております。
私達は今の生活に安住し、こんなものかなと思いがちです。先生に、はたしてそれでよいのかという問いを投げかけられたことです。「家庭の成就」ということは簡単なことではありません。順境ならよいが、情況によって家庭は崩壊、では元も子もありません。行き着くところ、何の為に生きているのか悩むことになります。煩悩存在の私達は死ぬまで成就ということを願いとして生きることが大切であることを教えられたことです。それは身近な生活環境、「家庭」であり、或いは「自己」の成就ということを生涯かけて歩んでいく、それには仏法という自己を映す鏡が大切だとご教示頂きました。
先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。
又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、役員の淡海雅子様、あとがきを執筆して下さいました会長の山田恒様に多大な感謝を申し上げます。 合掌
平成十八年五月二十八日
第七回護持会総会にあたり 光照寺副住職 池田孝三郎