「年寄りの最高の仕事」

一、はじめに

昨年は「家庭の成就」というお話をしました。そして立派な冊子にしていただきましてここにあります。今ぱらぱらとめくって見ましたが、なかなかいい話をしていると思っております。

このテーマはとってもいいテーマですが、実際にはなかなか出来ないのです。この前豊平で壮年部会があって、若い四十代、五十代の人が大勢集まってきました。その人たちが皆、自分の家庭、足元である夫婦が本当に仲良くできるのが難しいと、どの人もどの人も一生懸命言っておられました。それを聞いてテーマとしては非常に良かったのですが、中身としてはお粗末だと思います。

今年は「年寄りの最高の仕事」というお話にしたいと思います。年寄りというと何歳から年寄りというのか、年金をもらう六五歳以上とかいろいろあります。私は現在七六歳です。これは紛れもなく年寄りだと思いまして、私の最高の仕事は何だろうと考えてみることにしようと思っています。自分のことを語るということが一番分かりやすい。上手く語れるかどうかわかりませんが、私は七六歳で紛れもなく年寄りですから、「年寄りの最高の仕事」、私の最高の仕事は何だろうかをお話してみようと思うわけです。それと私が七六歳ということは非常に強い感銘を持って聞くわけです。私の先生、先ほど紹介がありましたが、先生は七六歳で亡くなられました。私も常々、先生と同じように先生と同じ歳まで生きていたいなあと思っていました。先生と十一歳違うのですが、とうとうその歳になってしまいました。それで、本当にこの歳で先生は亡くなられたのだなあ。私は本当にどんな仕事をしたらいいのだろうと考えまして、「年寄りの最高の仕事」という題を選びました。

仕事ということですが、仕事とは何か。『漢字語源辞典』をみますと、公事に奉仕すると書いてあります。「仕」とは仕える、奉仕するということです。そして、事とは公の事。公ということはどういうことかと辞書を引いてみますと、公とは「公は私に背く」と書いてあります。公とは私の反対。辞典に書いてあります。公のことに奉仕する。それが仕事である。また『広辞苑』を引きますと「しなくてはならないことをする」と書いてある。私がしなくてはならないことをするとある。どうでもいいことではない。そういうのが仕事である。

そうすると仕事は大切なことです。年寄りにとって一番大切な仕事。公のこと。しなくてはならない事。それはどういうことか誰もわかりませんね。今頃はそういうことはなかなかわからない。それで教えてもらわないとわからない。細川先生がいつも言っておられたことは、「孫を仏前に導くことが祖父母の最高の仕事である」ということです。私も自分からは気づかないのですが納得するのです。先生から言われてみますと、本当にこれは大事なことだと思います。子供の両親は忙しすぎてなかなか仏様の前に連れて行くことができない。ところが年寄りは比較的時間に余裕がある。年寄りでないとほとんどそういうことができないと付け加えてある。孫のない方もありますが、幼い子を仏様の前に連れて行くということが最高の仕事である。そういうふうに私は思うのです。それは私事ではない。自分のこととして私利私欲のために、私心でするのではなく、本当にそれは公の仕事である。正々堂々と、公明正大ということばがありますが、胸を張って公明正大に孫を仏前に導くことが非常に大切なことだといわれます。なるほどそのとおりだと思いますが、非常に難しいことです。そこで実際の現状はどうなっているのか。

私の住んでいる地域の現状を少し話してみたいと思います。私が住んでいるところは安芸門徒として有名な、広島県の浄土真宗が非常に盛んなところです。そこは全国的にも有名で安芸門徒という名前があるのです。全国に鳴り響いている安芸の国の門徒、安芸門徒です。その状況はどうかといいますと、私は芸北というところの豊平に住んでいるのですが、豊平には浄土真宗のお寺がとってもたくさんあります。十何ケ寺あるのですが、もう全部浄土真宗のお寺ばかりです。一キロ行けばお寺がある。どのお寺にお参りしても、といってもそんなにたくさん参ったわけではないのですが、私の地域にもお寺があるのでそこにはよくお参りします。そこのお寺は立派な内陣が荘厳されていて立派な庫裏が建ててあって、そして門徒もしっかりしているのでしょうね。そういうものを維持しているのですから。各家々はどういう家かといいますと、その家々は家の作りは一番大事な所に仏壇がおいてあってそこを客間としています。その仏壇はどの家も立派に荘厳されているのです。それですごい所だなあと思います。ところがすごく不思議な現象があります。そういう地域であるのに、朝夕仏前にお参りすることが現在なくなっているのです。朝仏前にお参りする。そうして夕方仏前にお参りして今日一日ありがとうございましたと御礼をする。そういうことがなくなっている。かつてはあったのですよ。今なくなっている。

そうしてもう一つは、若い人がお寺にお参りして聞法するということが殆んどなくなっている。かつては仏教青年会というのがどのお寺にもあって若い人が、何かというとお寺の手伝いをした。お参りをした。そうして仏教青年会を結成してお寺を支えたのですが、今はそのお寺で聞法する人がいなくなったというのが現状です。そうして私が知っている人で、衆徒でお寺に仕えてお葬式や法事に行かれる人が言われますのに、お念仏の声が聞かれなくなった。昔は本当にどこの家でもお寺でもお念仏の声が満ち溢れていたのに、この頃は葬式に行ってもお念仏をする人がいなくなった。そのように衰えてきたというのが現状です。木に喩えるとしたら、どんな大きな木も新しい芽が出てこなくては生きているとは言えない。ただ形だけが残っている。この頃松枯れがあります。大木が枯れる。枯れるとは新芽を出さない。そうすると新芽をはらまない木は死んでいるということです。形骸化しているということです。だからこの仏教の中でも、幼い人をはらまない仏教は生きているとは言えません。

そこで年寄りの仕事とは何かを考えたわけです。これをそのまま放置しておけば、瀕死の重傷でだめになってしまうわけです。それは仏法三千年の歴史、真宗でいえば七五〇年の歴史をストップさせることになる。ここに本当に孫を仏前に導く、あるいは幼い子を仏前に導くというそういうことが年寄りの最高の仕事である、という細川先生の言葉は浄土真宗を生き返らせる言葉ではないだろうか。それで「年寄りの最高の仕事」という題を掲げたわけです。皆さんどのように思われますか。

そのためには年寄り自身が念仏して生きることが、自分の生き方として最高の生き方であるということに確信を持っているということが大事です。そうしないと導きようがない。はじめにということで、そういうテーマを掲げた理由を述べました。

二、自分自身の求道

二番目は、年寄りである自分自身が仏の前を生きる人でなくては、孫や幼い人を仏前に導くことはできません。そこで仏前を生きる人とはどういう人かということを考えてみる。これも細川先生から聞いたことですが、「聞法、勤行、念仏」を継続して一貫することです。年寄り自身がまず聞法するということが大事です。

聞法とは二つあって教法を聞く。『正信偈』を聞く。『歎異抄』を聞く。読む、聞く。それが一つです。聞法は同時に聞光ということがあります。『大無量寿経』には話を聞くということは光を聞くとあります。教えを聞くとは光を聞く。光を聞くとはどういうことか。光によって教えによってどういうことがわかるか。一つは仏様がわかる。もう一つは自分がわかる。自分自身が何であるかがわかる。それが大変難しいと昔から言われております。「汝自身を知れ」というのがソクラテスの言葉です。「汝自身を知る」ということがわからないのです。いろいろ言い当てられています。凡夫という。罪悪深重煩悩具足の凡夫であるという言葉で言い当てられています。自分がわかって、わかった自分が念仏になるということが大事なのです。自分がわかっても念仏にならなければ苦しいばかりです。お前は凡夫であると、凡夫とは無明煩悩我らが身に満ちみちて欲も多く怒り腹立ちねたみ嫉みそういう心が臨終の一念まで捨てられないのが凡夫だと言われると、いいところは一つもないのではないかと思い、自分がわかっただけでは救われない。本当に自分がわかってその自分が念仏になるということが大事なのです。それを摂取不捨という。このことが聞法するということです。

次に勤行する。聞法だけではだめです。勤行とは行を勤める。行を勤めるとはなかなか苦しいです。止めたくなるのです。せめて日曜祭日くらいは止めさせてくれというわけです。勤めて行うのですから、赤尾の道宗が言いました。「朝勤め欠かさじと嗜むべし」と。朝勤めとは朝の勤行のことです。『御一代記聞書』に書いてあります。なかなか難しいです。忙しいということもあります。出勤しなくてはなりません。年寄りだから急ぐことはない。急ぐことはないけどせめて朝の連ドラくらいは見てからということになる。そちらのほうに引っ張られるとせめてご飯を食べてからとなる。そのうちにいろいろと仕事がでてきますから、朝勤め欠かさじとは難しい。私も七時に勤行することになっているのですが、張り切っているときには本堂に行って七時に誰がいなくてもするのですが、だんだん雪が深くなると本堂に行くのが寒いのですね。そうすると、台所に仏壇がありますからそこでする。そのうちにテレビを見てからとなる。そしてだんだん朝勤めを欠いてしまうことがあるのです。しかし勤行をしなくてはならない。それにくらべるとここのお寺さんはすごい。本当に六時半に皆さんがそろってする。私が見て偉いなあと思う。私より偉いなあと思う。比べるのはおかしいですが、私も七六歳になって朝勤め欠かさじということができないのはだめだと思って目標をたてました。テレビをやめて勤行をするという目標を。意外と難しいですよ。時間を決めてやるのは。それで七時にやる。娘と娘婿が二、三日前に来ました。それで私のことをよく知っているので、娘がいう「お父さん勤行は上の本堂でするの?」と。よく聞いてくれた。「するよ、お前たちは・・・」四十にもなっていますので言いませんよやれとは。それは自発的でなくては。これは非常に大事です。細川先生は勤行のことをどういうふうに言われたかといいますと、それは挨拶だと。「仏様に朝の挨拶を、夕べには夕べの挨拶を」と言われました。朝は「仏様、私はしっかりこれから頑張ります」と言って、夕べは「ありがとうございました。おかげで今日も終わりました」と朝夕挨拶をする。それが勤行だと。

その次は念仏です。念仏をするということは大切です。親鸞聖人は「ねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなうべし」と晩年言われました。「寝ても覚めても隔てなく」、隔てなくとは間をおかないで南無阿弥陀仏をとなうべしと。『正像末和讃』にある。

私の先生、細川先生は「トレーニングすることが何事も大事」だと。念仏もトレーニングしないといけない。練習をする。朝起きたら念仏する。一分間言えば大体六十回、七十回言える。勤行のとき南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏といえば六十回になる。トレーニングした結果、「寝ても覚めても隔てなく」これは八十歳になったときの聖人の言葉です。トレーニングしなければ成就することは何事もない。そこでトレーニングしなくてはならない。そうすれば念仏が身について離れなくなって、何か良いことがあったら南無阿弥陀仏、悪いことがあっても南無阿弥陀仏、念仏一つで事足りる。トレーニングの結果なのだと言われた。

もう一つは継続一貫する。どんなよいことであっても途中でやめたらそれで終わりである。やり始めたことは継続一貫、続けることが非常に大事であると、先生は言われました。私たちは継続一貫ということを叩き込まれました。本当に続けるということが大事だと思って、何年も続けさせていただいています。お蔭様でずっと計画を立てたことを続けているのです。いろいろな会がずっと続くことができていますし、そのことを感謝します。それは続けさせていただくことはありがたいことで自分自身も嬉しいことですけれど、それは全く自分自身の力ではないのです。「継続は仏力なり」と言われた。先生は、継続は仏様の力であると。門徒の力、先生の力、親の力、善き師、善き友の力、これを仏力という。本当に支えによって続けさせてもらっている。ありがとうございますと生きるのを、仏前を生きる人というのです。まず、そういう人ができていないと、幼い人を仏前に誘うことはできません。まず始めに自分がこうなることが大切です。皆さんはどうですか。

三、年寄りの最高の仕事

次に「年寄りの最高の仕事」とは何か、堀秀彦という人は『年齢をとるということ』という本を書かれました。哲学者で東洋大学の学長先生でした。その中で、「年齢をとると衰える。気力も失せ愚痴っぽくなる」と言う。そこに老いを超えるという文章がある。どうすれば老いを超えて生き生きと生きられるのか。それは「愛するものを持つ」、愛するものを持つということが、年齢を超えて生きられることである。愛するとは、いったい何か。それはその人の為に生きる。私にも母がいました。九十幾つまで生きました。母が生きている間は死んではならないと思いました。私は七六歳です。親に先立つということは不幸だと言います。母が生きている間は生きようと思いました。母が亡くなって今年の十一月で三回忌になります。これで私も子供としての勤めを果たしたなと思います。孫が高校一年生になって近くにやってきました。その時に私の女房、つまりおばあちゃんが言いました。「孫がここにいる間はここを離れられないね」と。つまり、愛するものを持つということはその人の為に生きるということです。だから、本当に妻を愛するのでしたら、妻の為に生きていたいと。つまり、責任を持つということです。責任を持って生きるということです。その人に対して責任を持つということ。愛情とは責任を持つということです。責任をもつとは相手を理解する。何を思っているのか、何が不安なのか、それに対して配慮の心を持つこと。それが愛するということ。気配りをする。この人は金が欲しいのだなと思ったら金をあげる。お年玉をあげる。それだけではない。相手を尊敬するということ。一人前の独立者になって生きていってもらいたいという尊敬がないと愛するということにならない。そういうものを持っていく。それが大事です。

次に、孫を仏前に導くということはどうすればできるのか。幼い子を仏前に導く、それはどうしたらできるのか。人は人の中で育つ。友達が大事である。善き友を紹介することが大事である。そこで私たちは少年練成会というのをずっと続けてやっています。子供を相手に二泊三日でやっている。実際に小学生や小さい幼児を相手に二泊三日を過ごします。彼らは友達を見ていますから、一緒に勤行するようになる。まだ這っているような子供が、ここに来て仏壇の鐘をたたこうとする。音がでていい気持ちになる。そういうことが自然にできて慣らしていくことが非常に大事です。ここのお寺も幼い子の声がお寺に響きわたれば将来性がある。

そういうわけで非常に大事なことは子供の声がするということです。まず、それをすることが大事だが金もうけにはならない。たいていのお寺が嫌がる。なぜかというと投資ばかりしなくてはならない。しかし最後には、その幼い子供たちも一緒に聞法会ができるということは、非常にいいことだろうと思う。その子供会のテーマは、独立できる人、この世の中を独り立ちして生きる人をつくっていくことです。自分のことは自分でする。人に迷惑をかけない。それが子ども会のテーマであります。光照寺の住職夫婦の四人の子供さんは少年練成会にきて、私たちと一緒に寝食を共にして仏法のご縁があったことを不思議に思います。だから中学一年の子を頭に四人、千葉県の岩井で一緒に海に入った。

豊平で少年練成会を始めた時、「君が本当にやるのなら、僕がプールをつくってやろう」と細川先生は言われました。並々ならない幼い者への愛情だったのだと今思います。その話で、ここは山の中でプールはない。プールの中に投げておけば子供はひとりでに独立者になると言っておられるのです。その話を若い人にしました。「先生プールを作りましょう」、と言われました。本当の言葉は響くものだなあと感心しました。

その次に、孫を仏前に導くのに大事なことは、「自分の演じる役割」というものはどういうものかということ。これは高い立場ではいけない。説教してはいけない。「いいか、念仏することは大事だぞ。そこに座って聞け」と、そういうことを孫に向って言ってはもうだめです。上から下はだめです。自分が黒子に徹するということがあります。歌舞伎のとき黒い服を着てめだたない人がいます。黒子に徹して、どのような時も孫が仏前に行くためなのだと、台所に立つときもあるいは付き添いの監視役にしても、いろいろな役割があります。送り迎えをすることも。そういうものに徹してそしてそこに関わりを持つことが大事なのです。それは若い者の仕事だ、私はやるべきことはやってきた、知らん、というのではだめです。自分がやれる事を一所懸命にやって黒子に徹することが非常に大事です。そういうような役割を分担してやらなければ本当の年寄りの仕事をまっとうできないのだということを申し上げて、終わりにしたいと思います。




あとがき

 本冊子は平成十八年五月二十八日、第七回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。

 佐々木先生には毎月当寺で開かれている聞法会「大経の会」に隔月にご出講いただき、ご法話を賜わっております。そして当寺の毎年の護持会総会でも第一回目から連続してお話を戴いておりますが、この様な冊子にまとめて皆様にお渡しするのは、@佛教とはなにか(第四回)A仏教における人間形成(第五回)B家庭の成就(第六回)今回のC年寄りの最高の仕事(第七回)で四冊目となります。毎回のテーマが私どもの暮らしに直結したものであり、日々の生活の指針が具体的に示されております。しかし小生などは折角 感動を戴いたご法話も、時と共に記憶が薄れてまいりますが、このような冊子で残されますと読み返すたびに甦えってまいります。これもご多忙の中、テープ起こし、原稿まとめ、印刷製本を担当して下さった方々の努力の賜物と感謝しております。

 いま、この冊子を拝読しますと一年前の先生の法話が思い出されます。年寄りの最高の仕事とは、愛する孫や幼い子供たちを仏前に導く、つまり浄土真宗との出会いの場を設ける事とあります。その為には自分自身が率先して「聞法、勤行、念仏」を継続して行なう必要がありますが、小生にはこれがなかなか難しく何時も反省ばかりしているのが実情です。

 最近いじめが大きな問題として取り上げられ、国民の関心が集っております。会社など勤務先でのいじめ、子供への学校内や遊びでのいじめ、親による家庭内いじめが挙げられますが、なかでも近年は子供同士のいじめが深刻になってまいりました。新聞によると児童・生徒がいじめに絡んで起こした事件が昨年は二百余件、前年比四十%と急増しており更に低年齢層に拡がって来ております。学校では先生が教室に入ってきても、生徒はおしゃべりに夢中でなかなか起立しないし、着席しても私語が続き授業が始められないなど、規律のない学級崩壊が全国的に拡大しつつあります。集団で一人をいじめの標的にしたり、些細なことで突然きれたり、いま子供たちはとんでもない方向へ走っているように見えます。まず足元から可愛い孫や子を正しい方向へ導かねばなりません、まだまだやるべき仕事が残されていることに気付かされました。

最後になりましたが、ご多用のなか原稿に目を通して下さいました佐々木先生、ならびに本文を纏めて頂いた淡海雅子様に厚く御礼申し上げます。

             平成十九年五月二十七日

        第八回護持会総会にあたり   光照寺護持会会長 山田 恒




お話の内容として最初から最後まで魅かれるものですが、中でも、細川先生が云われた「トレーニングすることが何事も大事」と仰っていることを受けて、佐々木先生は「念仏もトレーニングする」と云われ、その背景は親鸞聖人の『和讃』にある「寝ても覚めても隔てなく南無阿弥陀仏をとなうべし」と聞かせて頂き、私はそのことに注目しました。

「となえる」ということは「称える」というのと「唱える」という字を書くことがありますが、「唱える」と云うと、発語に執らわれて呪文のようになってしまいます。善導大師の「正行では称名と頂いておられ、親鸞聖人は善導を仰ぎ「称名」というものを大事にとらえています。名を称えるとはまぎれもない阿弥陀さんの名を称えることであり、念仏ということです。又、善導大師は「諸仏本願の(みこころ)(かな)う」と云われていて、本願の(みこころ)(かな)うということが称名念仏ということであるということを教示しています。 

又、「(かな)う」というと相称(かんがいそうしょう)というものが想起されま(はこ)(ふた)とがぴったり合わさる喩えで曇鸞は表現されています。それは相応することであり、阿弥陀さんの本願(摂取不捨のお誓い)によって、愚かな私が摂取されていることを喜ばして頂くことにほかなりませんそして、名はただ単に名にあらず、如実修行相応へと展開せしめていく。

歳をとることは決して辛いことではなく、深まりをもっていくことではないかと思いながら、楽しんで歳をとっていきたい。念仏を称えて。

 先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

 又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、役員の淡海雅子様、あとがきを執筆して下さいました会長の山田恒様に多大な感謝を申し上げます。                                       合掌

             平成十九年五月二十七日 
            
        第八回護持会総会にあたり   光照寺副住職 池田孝三郎






第7回  護持会総会法話 06.5.28 講師;佐々木玄吾先生(豊平道場主)