「凡夫の求道」
一、はじめに
昨年は「年寄りの最高の仕事」というお話をさせてもらいました。それを立派な冊子にしていただきました。その前年は「家庭の成就」という題でお話をしました。そこでは、行い、自分の実行という面を強調しました。ところが、どうも話してみて評判が悪いのです。どうして評判が悪いのかといいますと、やってみてもそのようにならない、と言われます。家庭の成就ができて皆仲良くやれるというのは、本当に時代的にも好ましいことであり、子供の教育にも大切であります。しかしながら、題は良いがやってみるとなかなか成果が上がらないというのが実情です。あんまり言ってもらっても出来ない、と評判が悪かったです。それで、今回はそういうものを実行する心根、心の根っこ、心の中はどうなのか。それを考えてみたらどうだろうかと、「凡夫の求道」という題にいたしました。それについて資料をお配りいたしました。
『蓮如上人御一代記聞書』の第五八条 『聖典』八六六頁。
文章を参考にしてお話をしたいと思います。一緒に読んでみましょう。
一 たれのともがらも、われはわろきとおもうもの、ひとりとしても、あるべからず。これ、しかしながら、聖人の御罰をこうぶりたるすがたなり。これによりて、一人ずつも心中をひるがえさずは、ながき世、泥梨にふかくしずむべきものなり。これというも、なにごとぞなれば、真実に仏法のそこをしらざるゆえなり。
蓮如上人の『御一代記聞書』は上人の御晩年の行実が書かれています。それは七十五歳から八十五歳まで大体十年間のことです。八十五歳で亡くなられていますから。十年間のことです。それは周囲の人に語られたものなので平易で分かりやすい。これに沿って「凡夫の求道」について話したいと思います。
一、「われは悪き」と思うもの一人としてもあるべからず
「たれのともがらも」とは全ての人で、聞法している人も世間の人も男も女も子供も大人も全ての人は「われは悪きと思うもの一人としてもあるべからず」と蓮如上人は言われます。
「われはわろきとおもうもの、ひとりとしても、あるべからず。」われは善きと皆思っているのです。凡夫だと思えないのです。人間は。「これ、しかしながら、聖人の御罰をこうぶりたるすがたなり。」
一、聖人の御罰をこうぶりたるすがたなり。
これはどういうことかといいますと、われは善きと思っている、あるいは中間だと思っている。われは悪いと思っていると口では言っていても、それは当てずっぽうで言っているのであって、本当はなかなか思えないのですよ。本当は。それは「聖人の御罰をこうぶりたるすがたである。」「たれのともがらも、われはわろきとおもうもの、ひとりとしても、あるべからず。」われは善きものだと思っているということは、聖人の罰を蒙っているのだと。「聖人の御罰」とはどういうことかと言いますと、『聖典』の中にありますが、引くのは大変ですので、私がかいつまんで申します。
諸根が醜くなる 欠減醜陋
諸根とは、目で見ること、耳で聞くこと、心で思うこと。それは感覚器官で思うことです。それが諸根ですが、それが卑しく汚くなる。相手のしていることが素直に喜べない。感謝しない。先ほどここで合唱がありましたね。それを聞いて皆さんはどう思われましたか。感謝というか、すばらしい仏様のお徳、如来の真心がその合唱の中に表れていると思うのは、これは諸根が優れているのですね。また、人のしていることを悪く思うことがあります。たとえば、ご馳走をしていただいたらありがとうございましたと感謝すればよいのに、下心があるからご馳走するのではないかとか、悪く思う。そういうのは諸根が醜い。それを難しい言葉でいえば欠減醜陋と言います。『聖典』にあります。これはつまり諸根が醜く卑しくなってくる。それが罰を蒙りたるすがたである。もう一つ、こういう言葉が続けて書いてあります。
共に住し共に食し共に戯笑することあたわず
つまり人間というのは人と人との間といって人間関係の中で生きています。人と人とが繋がっていないと人間と言わない。人間は人と繋がって生きるのです。だからその繋がりが断たれると言われているのです。どういうことかといいますと、「共に住し」とは一緒に住み、「共に食し」とは一緒にご飯を食べ、そうして「共に戯笑する」。戯とは遊戯の戯です。一緒に遊べるということです。子供がいるでしょ。たとえば、馬になって子供を乗せてハイハイをして歩くとか。楽しくやれる。一緒に笑える。ああ本当によかったね、楽しいね、と。そういうことができないと言うのです。それがなぜできないかと言うと、あなたが我は善きものだと思っているからです。我は悪しという凡夫というものにならないと、そういう人間関係ができない。自分の胸に手をおいて考えてみてください。大体自分が家族から好かれているか。あの人が帰ってきたから本当によかった、お帰りと言って皆が一緒に食べましょうというようになるか。それとも段々段々一人去り二人去り、とうとう一人で食べていましたというようになるか。一人で食べるのを孤食といいますが、そういう状態なのか。一緒にできないのは、あなたが善きものになっているからです。我は悪しという凡夫でないから、そういうことになるのです。それは聖人の御罰をこうぶりたるすがたなのです。
聖人はどういうお方かと言いますと、親鸞聖人は本当に頭が低い人です。『和讃』でもいろいろなところで書いてあります。「愚禿親鸞」とか、そして「地獄は一定すみかぞかし」、地獄行きの私だと言って、本当に自分自身を最低のものとして懺悔しておられるのです。聖人の先生、法然上人でも同じことですね。「十悪の法然坊、愚痴の法然坊」といって頭を下げておられる。それが自分にはできない。善き人だと思っている。これは聖人の仰せとは違っている。聖人は自分のことを善き人だとは思っておられない。自分のことを我は悪しと思っておられる。蓮如上人もそう。だから私たちは、人がだんだん自分のそばから少なくなっていく、あるいは総会でも人が減ってくるというときには考えなければならない。友達が少なくなるということは自分が高いところにいるのだということを考えなくてはならない。人のことではない。私のことです。私も考えなくてはならないと思っています。
「これによりて、一人ずつも心中をひるがえさずは、ながき世、泥梨にふかくしずむべきものなり」とあります。「ながき世」とはこれからずっと先、「泥梨」とは地獄ということです。地獄に沈んでしまってたすからない存在である。そこで「心中をひるがえさずは」とは、心中とは心です。心をどのようにひるがえすのか。それは「たれのともがらも、われはよきもの」それを「われはわろし」と凡夫になることが心中をひるがえすことです。つまり心の中が「たれのともがらも、われはわろきとおもうもの、ひとりとしても、あるべからず。」われは善きものと心の中では思っているのです。中ぐらいと思っているのも同じことなのです。それとわれは悪しと思っているのが聖人です。心の中がひるがえり心の中が変わっていく。「ひるがえさずは、ながき世、泥梨にふかくしずむべきものなり」、地獄に沈んでいくしかないのではないかと言っている。
一、心中をひるがえす
心中をひるがえすとはどういうことかというと、『聖典』の中にあります。誰も自力の心を持っています。私が頑張らなくてはならないというのが自力の心、その自力の心はわれは善きと思う心、その自力の心をひるがえすという時の一番初めにはどういうことが書いてあるかと言いますと、親鸞聖人がおっしゃったことです。「自らが身をよしと思う心をすて」と書いてあります。自らが身をよしと思う心をすてることが自力の心をひるがえす。だれもが自分のことをよしと思う。頑張ればやれると思っています。自分では。その心で世間にはものをしならうということがあります。どういうことかといいますと、「人には劣るまじきというこころあり。その心にて世間にはものをしならうなり」。私は人に劣ってはならない。頑張らなくてはならない。しかも、私はやればできるのだと思っています。それをひるがえす。それはものすごく大変です。というのは自らがよしと思う心とは人間本来の心です。誰でもがそう思っています。それをひるがえすのが仏法だと。これがなかなか難しいです。
有名な鳥か禅師と白楽天の喩えがあります。
白楽天と鳥か(ちょうか)禅師
中国の話です。木の上で鳥の巣の上に座ったようにして修行している坊さんがおられた。そこに白楽天という詩人がやってきた。その詩人が、仏教とはなにかと聞いたのです。高い木の上で座禅を組んでいる坊さんが答えました。『諸悪莫作 修善奉行』と。悪いことを止めて善いことをする。それが仏教だと言った。そうしたら、白楽天は言った。そんなことは三歳の童子もこれを知っている。三歳の童子も悪いことを止めて善いことをしなければならないことは分かっている、と白楽天が言った。そうしたら鳥?禅師は「八十の老翁も行うことあたわず」と答えた。八十歳になっても、善いことをして悪いことをしないということはできないのだと答えた。そのことが詩になって残っているのです。そのように、自分にはできると思っている。それは三歳の童子も分かっているのです。人間本来の性質なのです。
それをひるがえすというのがとっても大変なのです。仏法はそれがひるがえされる教えなのです。そこに本当に世の中に役に立つというか、はたらくことができる。仏法を本当に頂いた者は必ずその世の中で尊重される人になる。それはどうしてかというと、ひるがえされた人だからです。ひるがえすということが非常に難しい。
そこで夕べ公民館で話をしました。帰ってある人が言いました。私はひるがえすということを聞きたいのだと。ひるがえされるとはどうやってひるがえされるのか、そこが聴きたかった、と。それはなかなか簡単には言えないのだと私は言いました。なぜかといますと、「たれのともがらも、われはわろきとおもうもの、ひとりとして」もいないのですから。それをひるがえすのは大変です。ここから非常に大事なことを言いますからよく聴いてください。いかにしてひるがえすことができるかということです。それは細川先生がこのような絵を書かれました。何回か言っていますので皆さんご存知の方もあると思います。
人間は、これではいけないと思っているのです。なんとかしたいと思っている。自分の家庭、自分の周囲、職場、国家を見て、これではいけないと。そういう思いから出発します。坂道を登るように仏法を聞き始めます。そうしたらここに第一の立て札が立っています。継続一貫という。やり始めたことは苦しくても続けなさいと。そうして次の立て札は積極的聞法と。ただ受身で聴いているのではなくて、もっと自分が身を入れて聴いていく。今日も住職が、役員は身を入れて聴いて下さいとおっしゃるように、それが積極的聞法です。昔から積極的聞法とは金を使って命がけでということがあります。金や時間を惜しむな。忙しいから止めておこうというのではなくって、忙しくてもその時間を作り出して聴く。そうして現実を受け止めて、自分の身の回りと取り組んでいく。それが積極的聞法です。
そうして最後の立て札はここにある。その立て札は「まごころ」という。まごころがあるかという立て札です。あなたは継続一貫、積極的聞法をやってきた。それは、別な言葉で言えば、「教に順じて行を修す」ということです。教に順じてとは「自心を建立して」という善導大師の言葉です。ここに私は「やりぬくぞ」という自心を建立して、自分の心を打ち立てて実行する。そうして遂に最後の立て札に出あう。その立て札には「まごころはあるか」と書いてある。このまごころはあるかという立て札に会えば、落在して凡夫というものになる。我は悪しとなる。まごころにぶち当たって我は悪しとなる。しかし始めからそうはならない。はじめは、何とかしたい、自分の心を建立して本当の信心を頂きたい。信心決定して正定聚に住す、そういうようになりたいと心に思う。継続一貫、積極的聞法をするのだけれど、終に「まごころはあるか」という立て札にぶつかったら、落在して我は悪しというしかない。
これは図式です。その時に自心を建立して、「自心を建立して」とは私はやりぬくぞという気持ちをたてて、「教に順じて」とは説く人の教えに順ってということ。それを就人立信と言うのです。つまり教えを説く人に従って行を修す。教に順ずるところに教える人が居るのです。行を修するところに実行がある。実行とは何かというと、昨年の言葉で言えば聞法・勤行・念仏。聞法・勤行、念仏するのが行を修することです。だから終に聞法・勤行・念仏をまごころでやっているのかという立て札に出会って、まごころはありませんと落在するしかない。そこに念仏一つという世界がある。凡夫というのはただ念仏と離れない。さっきの人は言う。私はまごころでひるがえされるのを聴きたいのだと。しかし、まごころでひるがえされると聴いても、勤行もしなければ念仏もしなくてまごころまでいかないのですから、これは難しい。だから「教に順じて行を修す」という道を歩いていくことが大切なのです。本当に。だからここを歩くのが大事です。
まごころがあるかということを、細川先生がこのように言われました。あそこにあります。なんと書いてあるかと言いますと、「人生を浄土の縁とし、如来のまごころの中を生きさせて頂いて慶びこれに過ぎるものありません」と書いてあります。つまりどういうことかと言いますと、如来のまごころをひしひしと感じる身になるということです。このまごころは如来のまごころです。如来のまごころを本当に感じさせていただく身になる。そのとき「慶びこれに過ぎるものありません」となる。
そうすると私たちは今ここに居ります。如来のまごころをひしひしと感じているかどうか。凡夫ということです。皆さんはどうですか。この会座があります。総会があります。この総会が如来のまごころをひしひしと感じる総会である。これはつまり、如来のまごころは善知識のまごころであり、善知識のまごころはここに集う僧伽のまごころです。ここに集う光照寺の護持会総会に集う方々のまごころをひしひしと感ずることができるということが大事です。それが「我は悪し」ということです。これが単なる繰り返しで、八回目の案内がきたから形だけでも顔を出しておこうと思う。はじめはそれでいいのです。しかし、ここに来て仏前に座ったら、如来のまごころの中で行われている仏事だなあということをひしひしと感じて、南無阿弥陀仏と念仏申せるようになることが大事なのです。
如来のまごころは善知識のまごころ、善知識のまごころはここに集う僧伽のまごころ。それを感じて生きる。そこにひるがえしということがある。そうして、それをひるがえされなかったなら、ながき世、地獄に落ちていくのだとおっしゃっています。それは「これというも、なにごとぞなれば、真実に仏法のそこを知らざるゆえなり」とあります。そういうようにならないのは仏法の本当のこと、仏法の信、仏法の底を知らないからである。最後に我は悪しというままに仏となるのが仏法なのです。そういう仏法の真意、一番本当のもの、結論を知らないからそういうことになるのだ。だから心中をひるがえしていきなさいというのです。
仏法の底を知ったらどうなるのか、仏法の底とはどういうことか。それはこの善導大師の『二河白道』の歩みの中に、遂にその行者は彼岸つまりお浄土、安楽浄土に到達する。『二河白道』の最後は「善友あい見て慶楽すること已むことなからん」というので終わっています。慶楽とは、本当に現実に今喜んでいる。本当に楽しんでいる。聞法のご褒美は友ができるということです。本当に私をたすけてくれる、本当に私を支えてくれる、本当に私の悩みを聞いてくれる、本当に分け隔てない友ができることが、聞法のご褒美だというのです。皆さんが聞法していかれるそのとき、よき友というご褒美を頂戴してくださればこれが嬉しい。そのときに家庭の成就ということも成り立つのです。そうすると聞法していくのが根本。友ができるというのが大切です。
それでは、「我は悪し」という人の特徴はどういう人でしょうか。「我は悪し」という人は成熟している。成熟した人の特徴は、
@、柔軟である。肩に力が入っていない。非常に落ち着いている。
A、忍ぶ力がある。いろんなことに耐え忍んで本当にやりぬいていく力を持っている。
この話を夕べしましたら、ある人が、もう一つあるのではないの、と言いました。聞法を続けていく人は長生きして元気ではないかと。たしかに長生きしないと分からないことがあります。私は今七十七歳で、人が元気だと言ってくれるのは仏法のお陰だと本当に思います。どうしてかというと、やることがあるからです。やりたいと思うことがあるからです。何をやりたいと思うかというと、今度家を建てることにしました。二世帯住宅。子供や孫と一緒に住んで本当にそこを念仏の道場にしたいなあと思うから、元気が出る。やりたいこと、仕事があるから元気が出る。そうして能動的に積極的にやれるというのが特徴だと思います。これで終わります。
あとがき
本冊子は平成十九年五月二十七日、第八回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。
佐々木先生には当寺の聞法会「大経の会」に隔月にご出講いただいておりますが、毎年のこの護持会総会でも第一回目から連続してご法話を戴いております。毎回私どもの生活に密着したテーマでお話下さいますので、日々の暮らしの指針として有り難く頂戴しております。しかし小生は折角のご法話も時と共に記憶が薄れてまいります、お話がこのような冊子の形で残されております事で、読み返すことにより新鮮に思い出されます。
冊子の発行は第四回総会分からですが、@佛教とはなにか A仏教における人間形成 B家庭の成就 C年寄りの最高の仕事 D凡夫の求道 でと五冊目になりました。皆様も折を見て読み返して戴ければと思います。
最近の日本人の宗教意識についての文化庁の調査をみますと、「特定の宗教を信仰しているか」については、戦後まもない時期は六十%台だった信仰者の割合が徐々に低下し、今では二十%台に下がってきています。つまり戦後過半数を占めていた信仰を持つ人の割合が今では日本人の四人に一人となり、しかも低下現象は続いており歯止めが掛かっていないと指摘しています。また年齢でみても、真宗理念とは異なるとは言え家伝来の仏教を継続して守っている高齢者はまあまあとして、これからの日本を支える若年層の大多数が宗教無関心層と報告されています。それは戦後の政治・経済・教育の様変わりや都市集中化、核家族化などが要因と思われますが、周りの家族や親類縁者がまさにその姿であり、それを変えられない現実がここにあるのです。親は心で念じ行いで示せといいます、この身で示すことが唯一の道と思われますが。
いま、この冊子を拝読しますと一年前のご法話が甦りました。「共に住し共に食し共に戯笑することあたわず」まさに日本の現状を表しております。人と人が繋がって結ばれる人間関係は「我は悪しという凡夫」にならないと出来上がらないと聞かせて戴きました。
日本佛教は難解と云われておりますが、佐々木先生の護持会総会でのご法話は、身近のテーマを解り易くお話下さいますので、毎日の暮らしの方向として戴かせております。これからも是非続けて戴ければと願っております。
最後になりましたが、佐々木先生には長年にわたり一回も欠かすことなく、貴重なご法話を賜り有難うございます。ご健康に留意されてこれからも長く続けて戴ければと願っております。また冊子に纏められた関係者のご苦労に紙上を借りて厚く御礼申し上げます。
第九回護持会総会にあたり 光照寺護持会会長 山田 恒
先生には「凡夫の求道」という魅力ある講題にてお話いただきました。一般に凡夫というと、負のイメージをもたらせ、平々凡々、凡人ということでとらえることが多いです。しかしあらためて考えると平々凡々や凡人ということを堂々と云えるというのは生きることに対して可もなく不可もなく、幸でもなく、不幸でもないという心境ではないかというある意味において達観しているとも思われます。
はたして、親鸞聖人の云われる凡夫とはそういうことなのでしょうか。座談でもときたま「私は凡夫だからこんなものです云々」ということをよく耳にします。何かそこには自己卑下して消極的な自己存在の受け止めしかありません。先生の法話では「凡夫とは自覚です。仏様によって見出された自覚なのです。」とあります。自分で見出されたものではなく、仏様によって見出されてくるところに「凡夫」が光ってくるように思います。
親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」という表現をされますが、煩悩というものと真面目に格闘した人だと思います。煩悩が悟りの邪魔をして、煩悩を無くそうという従来の仏教を必死に修行し、そして煩悶しながら善き師法然上人に出遇い、煩悩の身のままに救済してくださる阿弥陀さんの本願の救済に出遇っていかれた。その喜びは、「愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」(『総序』)と至上の喜びを語ってます。
少子高齢化の時代にあって、世の中は暗い事件ばかり起こり、年金や医療の問題に不安を抱える現代はまさしく煩悩が渦巻く真っ只中にあります。煩悩によって汚染されると口から出るのは愚痴ばかりです。その愚痴が智慧に転換されるには仏様の力が必要です。愚痴のままの人生で終わりたくない人は「煩悩具足の凡夫」という言葉が光るのではないかと思います。そしていよいよ求道させていただくのでしょう。
先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。
又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、役員の淡海雅子様、あとがきを執筆して下さいました会長の山田恒様に多大な感謝を申し上げます。 合掌