「通じ合う心と心」

一、 はじめに

おはようございます。私は一年に一回、ここでの門徒総会でお話をさせてもらって、もう何回かになり、去年の分はこういう『凡夫の求道』という冊子を作っていただいています。

そして、今年も話をしますけれど、こういう風にいい場所があたえられ、それがこういういい冊子になって出てくるというのはここだけで、大変有難いことです。とても嬉しく楽しく思って、今日も参らせていただきました。今年は「通じ合う心と心」という題でお話したいと思っております。

ありがたいですね。ほんとうに。このようにご住職や坊守さんが前に座って、お話を聞いてくださる、そういう所はまああるのか、ないのかよく知りませんけれど、非常に嬉しくありがたく思っています。

通じ合う、なるほどという話ができればいいのですけれど、なかなか難しいです。

そこで、はじめにというところで、先ほど、土田さんの紹介にもありましたように、最近事件がありまして、皆さんご存知でしょうけれども、二十三歳の孫が七十代の祖父母を殺したという、しかもそれが非常に可愛がっていたというテレビのニュースがありました。私たちも七十代の祖父母で孫がまだ二十三歳にならないから良いものの、本当に二十三歳になったら危ないなあと思いました。

実際可愛がっていても、「孫という名の宝物」という歌もありますけれど、あれは十歳までで、だんだん大きくなると、可愛がっている人を刺すということが起こるわけです。可愛がるということは甘いということで、甘やかされた孫は、自分が受け入れられなくなった時なにをするかわからない。

それで、本当になかなか実際世の中は通じ合わないなあと思います。皆さんも良くわかっておられるでしょうが、夫婦の会話がなくなるという、夫婦の会話が大体二、三語で尽きるという。「飯」、「風呂」、「寝る」しかいわなくなると、離婚が起きるという。そういうことで、一番親しくしていなくてはいけない人が通じ合わなくなるという。本当に先ほどご住職に言われましたが、他人事ではないのだと。そこで今回は、夫婦が通じ合う、子どもが通じ合う、孫と通じ合う、近所と通じ合うという、そういう通じ合う心を大事に考えてみたいのです。

そこで、住岡夜晃という人の法語というのがありまして、それを見ていただきたい。

一、住岡夜晃「法語」

『讃嘆の詩』という本の中にのっているのをコピーしてのせてあります。このお方はどうしたら通じ合うかを問題にしたのです。ここで一緒に読んでみていただきたいです。

心と心 どうしても通ぜぬ心と心

人生のさびしさがそこにある

家庭の暗も世間に生きる悲しさもここにある

凡夫の愚痴も聖者の悲涙もそこにある

心と心 み教えによって古の聖賢に通う心と心

生きる喜びがそこにある

彼はその時人生における単独孤立の淋しさから救われる

彼の悲しみが大慈悲の線に添い

彼の喜びが大慈悲の廻向である時に

やがて彼の周囲には彼と同一の道に生きる人が自然に生まれる

大心海に通う心と心

彼はその時生きることのうれしさの本質にふれる

ああ生きることのうれしさありがたさ

今日もまた我この幸に泣く   

                        住岡夜晃法語 『讃嘆の詩』

このお方は五十五歳で亡くなられましたが、本当に生きることの嬉しさ、ありがたさ、今日もまた私はこの幸に涙する、本当にありがたいといって、亡くなっていかれた。

それは、彼と同一の道に生きる人が自然に常にうまれて、それが本当に無理矢理に言うことを聞けといって聞かされるのではなく、自然に通じ合って生きられた。どうして通じ合って生きられるかというと「古の聖賢に通う心と心」、あるいは「大心海」、大心海とは仏様のお心のことを大心海という。大きな大心海、そういうものに通う心と心。如来のほうに通う心と心。私の心と如来の心が通じ合う。その時に、人生に対しても、側にいて一緒に暮らす人々とも、単独孤立の淋しい人達とも本当に通じ合う関係が成り立つのです。家族とも隣近所の人とも是非、通じたいと誰もが思うわけです。

私の母はこの巻頭言がとても好きで、私が子どもの頃から、いや大分大きくなってからもいつも聞かせてくれました。

私のところの母はどうしてかというと、弟に嫁さんがきてそれと非常に仲が悪かったのです。本当に悲しかったのだろうと思うのですよ。なかなか嫁と姑というのは難しいですよね。いや身内も難しいですからね。なかなか。自分でその人と通じ合おうと思ったら、仏様の心はどうなのか、仏様の教えはどうなのか、と仏法に自分の心を向けるということが、実は人生というものに対して通じ合うということができるのだと、夜晃先生はいわれるわけです。

実際にこれは嘘ではなく事実としてそういうことが成り立つのです。そういう話だろう、と話にしてはいけない。それは本当に事実として成り立つことが大事。そこでですね、御一代記聞書を見てください。

一、蓮如上人御一代記聞書 

これは『蓮如上人御一代記聞書』といいます。去年もこの話をしました。お東の『真宗聖典』では二九三章、九一〇頁に載っています。これを後で一緒に読んでみましょう。つまりこれはどういうことかというと、通じ合う心というのは信心だというのです。 

通じ合う心 (信心)

@  求道の姿勢

A  生活の姿勢

 

通じ合う心とは信心だと書いてある。そこで、これ本当に私、身にしみるのですが、あなた方はどういうように思われますか。蓮如上人というお方は、八十五歳で亡くなられるのですけれど、亡くなる前の十年間、七十五歳から八十五歳までの十年間、側に居た人達やお弟子さんや上人の子供さんが非常にありがたい言葉だと言って、書き付けて残されたものです。それがずっと伝わってきた。ちょうど孔子の『論語』のように御一代記聞書というのは浄土真宗の論語であるといわれています。だからそういうふうに大事にされてきたのです。大体その中はどういうようになっているかというと二つの内容になっている。

一つは求道の姿勢、求道の姿勢とは自分が道を求める。つまりお浄土の方に向かって歩む、そういう求道の姿勢。二つには生活の姿勢。つまり現実の生活、毎日の行い、あるいは口で言うこと、心で思うこと。そういう自分の家庭生活、あるいは職場での生活、あるいは社会に対するそういう生活、そういう二つのことが、二九三章の中の内容であるといわれている。この中でこの「通じ合う心」は生活の姿勢をいっています。では、読んでみて下さい。

 

「信をえたらば、同行(どうぎょう)に、あらく物を申すまじきなり。心、和らぐべきなり。触光(そっこう)柔軟(にゅうなん)(がん)あり。又、信なければ、()になりて、(ことば)もあらく、(あらそ)いも必ず出来(しゅったい)するなり。あさまし、あさまし。()()く、こころうべしと云々」                        『蓮如上人御一代記聞書』

出来(しゅったい)する」とは、そういうことが起こってくるということです。諍いが必ず起こってくる。しかも必ず起こってくるのだ。

「あさまし、あさまし」。「あさまし、あさまし」とはどういうことかというと、情けないことだ、情けないことだ。「能く能く、こころうべし」だと、生活の姿勢を出しているわけです。そこで、信を得た人の姿は二つの姿勢になってあらわれるのです。

一.信を得た人の二つの姿勢

     @求道の姿勢  

聞法 

勤行 

念仏 

信を得た人はどういう姿勢をとるかということが書いてある。生活の姿勢と、求道の姿勢。信を得た人の姿には二つあるのですね。求道の姿勢。これは私が今までに何回も話しましたけれど、求道の姿勢とはどういうことかというと、聞法、光照寺ではとても聞法会が盛んだというわけです。教えを聞いて聞法、そして勤行、念仏する。

私の先生、細川先生の遺言は何か。先生は何と言って亡くなられたのだろうか、何を残されたのだろうか、何を本当に言いたかったのだろうかと考えてみましたら、結局、先生は聞法、勤行、念仏と言って亡くなられたのだなあと思うのですね。そこで求道と言うことでは、聞法、勤行、念仏。こういうことが非常に大切です。

私は豊平道場というところに住んでいます。もう十五年になります。ようやく後継者が出来ました。後継者というのは跡継ぎですね。来春に交代しようと思って、四月から一緒に住んでいるのですよ。あの、佐々木常和先生、大学の先生を今年はまだやっておられるのですが。私は小学校の先生をしていました。どっちも先生をしていましたね。そしてその夫婦と一緒に住んでいます。そこでわたしも考えた。考えたといっても家内が考えたのです。

つい先日豊平で会がありまして、ある人がいった。佐々木先生から奥さんを引いたら何にもないかと思いましたが信心が残った、と。私はうれしかったですね。その人から何か大切なものを引いていって、最後に信心が残ればこれ百点満点です。みんなとり払われて何の役にも立たなくなった、しかし、この人には最後に信心があった。こうなると非常にありがたい。そういうわけで、蓮如上人も、「信を獲れ 信を獲れ」といわれるわけです。だから信というのが大事です。信を獲る方法は聞法、勤行、念仏。それで、家内が言った。二世帯四人で暮らすのだから、今まで怠けていて食堂のお内仏で勤行していたが、これからは本堂に行って朝七時、夜七時に勤行しましょう、と。しかもその勤行は、朝は『観無量寿経』の繰り読みをすることになった。まあ、これは長く続くかなあと思ったのですが、幸いに二ヶ月続いています。これやっぱり、円満に家庭を治めようとすると勤行から始めるというのはいいですね。

私は思いますよ。チャンスですね。そういう意味で他人が入るというのはいいですね。身内では馴れ合いになります。連絡もその時にする。私共は今は非常に順調な滑り出しをしております。来年の三月で私共は退くということで徐々に準備をしています。勤行をしたということは良かったですね。一方、生活の姿勢ということをいわれた。信を獲た人の姿勢、それはどういうようになるかというと、これは「あらく物を申すまじ」。あらい言葉を使わない。

A  生活の姿勢

a.信をえたらば

あらく物を申さない

心が和らぐ

 

あらくものを申さないということです。あらっぽい言葉を使わないということですね。これは非常に痛いのですね。なぜ痛いのかというと私の家内が「あなたは自分が一番偉いと思っているのではないの。私をやっつけて、やっつけて、どうしようもない。私はノイローゼになりそうだ」と、私に言うものですから、私は信を獲たと思ったけれど、どうやら違うみたいだ、これは。あらく物を申さない。そうして心が穏やかである。心が和らいでいる。心がいつも和らいでいる。そしてこちらのほうに、「又、信なければ」と隣にありますから、信がなければ諍いも(ことば)もあらく、出来(しゅったい)するものなりということは、これの反対が書いてある。「(ことば)もあらく諍いも必ず出来(しゅったい)するなり」。諍いは闘争ですね。「諍いも必ず出来(しゅったい)するなり』と書いてある。

 

  b.信がなければ

諍いも必ず出来する

浅ましい  なさけないことです

    我になりて (自己中心の心)

必ずというはもう必然的に信なければ必ず、必ずというのは凄いですね、これは。必ず出来(しゅったい)するものなり。そういうふうに、そして「あさまし、あさまし」あさましとは、大体情けないことである。なさけないことだ、「あさまし、あさまし」と情けないことだと二つ、強調してありますね。「あさまし、あさまし」情けないことだ、情けないことだと。よくよく心得べし。よくよくこころえなくてはならないといわれたわけです。蓮如上人がいわれたわけです。「信なければ、我になりて」とは、我見といって自己中心、自分が自分がという自己中心ですね。自己中心の心を我という。自分の損得ばかりを考える。それを「あさまし、あさまし」といっている。こういうふうに書いてある。

一、   私は信を得た人であろうか

信のない人であろうか

中間ぐらいの位置にいるのか

 そこで、問題は「私は信を得た人であろうか」。この文章を見て「私は信を得た人であろうか、それとも信のない人であろうか」という質問ですね。

あるいは、随分光照寺の門徒総会にきてお話も聴いているし、聞法会に出ているから、信を得たとはいえない、信でないといってもシャクに障る。だから中間ぐらい。信を得た人と信のない人の中間ぐらいの位置にいる。こういうように問題を設定して、そこで聞いてみます。信を得ていると思う人、手をあげてみてください。では、自分は信がないと思う人は手をあげてください。なかなか、元気がいいですねえ。

それではもう一ついいですか。信がないともいえないし、あるともいえない。私は中間ぐらいだと思う人は手をあげてください。中間ぐらいの人のほうが多いね。

なかなかおもしろいですね。信を得たという人はさすがにゼロです。これは凄い。仏法を長年聞いてきた。本当はいつも信を得たと思って話しているのではないですかねえ。信のない人がこの中で十人ぐらいでしたね。中間ぐらいの人が十人くらいでしたね。私はですねえ、自分自身は口では謙虚にいろいろなことをいいますけれど、実際には自分は信を得た人であるとして話をしていたのですよ。私は信を得た人だと自信たっぷりに、こうだああだといっていた。しかしですね、実際は信のない者、自分はそう考えたのです。どうしてそう思うかというと、私の家内がどのようにいうかというと、「あなたは非常に私のすることは何でもだめだという。それは結局否定する」という。「私を否定して自分を肯定する」。仏法とは必ず自己否定なのです。

   

仏法とは必ず自己否定

 

仏法とは必ず自己否定なのです。親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」といわれます。「出離の縁あることなし。」絶対に助かる縁のないのが私だといわれます。そうするとこれの正解は、信のない人であるというのが正解です。つまり自分自身は、本当は申し訳ない存在なのだと。救われる手がかりのないのが私なのだといって、自己を否定して念仏をする。そこにかけられている如来の本願を頼みにする。私たちは自分を頼みにするわけです。自分の努力精進を頼みにするわけです。私は、本当に今日はいい話を聴いて人と通じ合う人になろう。そのためにはあらく物を申すまい、と。

ところが、そのように自分自身を頼みにするのではなく、如来を頼みにするというのが、私たちの生き方なのです。だから、「申し訳ありません。南無阿弥陀仏」ということになるのです。

そういうことになるのですが、実際私はですね、どういうことを心掛けたらいいのか。実際に家庭生活で、どういうことを心掛けたらいいのか。自分自身が、如来から見てあさまし、あさましといわれている存在なのだ。如来が、情けないことだ、情けないことだ、と。それは誰のことか。それは私のことだということをよくよく感じて、絶対に助かる手がかりのない私南無阿弥陀仏、とお念仏していく、そこに本当に人と人とが通じ合う世界というものが出てくるのです。

だから、自分を肯定して相手を否定するところには、つまり上から下にものを見る時には通じ合わない。自分というのは本当に浅ましい存在であると如来から見られている。南無阿弥陀仏と念仏する、そこに通いあう世界というものが出てくるのではないかと私は思って、実験をしているところなのです。その実験が成功しているかどうか自分ではわかりませんから。奥さんに聞いてみるのがいいですね。本当に家庭円満、通じ合っているかどうか相手に聞いてみないとわかりませんからね。

そうして、二所帯同居でしょう。豊平でも二所帯同居です。日野に来ても二所帯同居なのです。二所帯住宅を建てました。新しく家を建てましたから、どうぞ来て下さい。本当に果たして私の二所帯が「通じ合う心と心」ということで、娘たち夫婦と孫と通じているかどうかというのは、そこに行って見ないとわからないですよね。遠くからいっていたのでは。その場所に行ってみて、本当にここに仏法の心が流れているかどうかというのは、見られた人に判定してもらわないと。

 しかし、浄土真宗の長い歴史では、確かにこの信心ということが成就したならば、ありがたい世界ができてくるという、その歴史がお寺を造り、法事が伝わってきているわけで、実際に効果があったわけです。

今日の話が、本当に効果があるかどうか、さっき土田さんから紹介がありましたけれど、家庭において、私のこの話が効果があるか頷いていただけるかどうか、実験してみていただきたいと思います。これで終わります。



あとがき

 近年は時の流れが早く感じておりますが、もう一年が経過し前年の護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の冊子を戴きました。

先生には毎回欠かさずにご法話を戴き、ありがたく感謝申し上げます。とかく佛法のお話となると、教義・経典など難解で別世界の印象がありますが、先生のテーマは私達の日々の生活の中から取り上げて、解り易くお話下さいますので、毎回楽しみに聞かせて戴いております。

 今回のテーマ「通じ合う心と心」、この課題は人間この世に生きていくためには、絶対に欠かすことの出来ないものと思いますが、現実の姿は自分の都合の良いときだけ通じ合い、都合が悪ければ相手をけなし断絶するのです。

 「蓮如上人御一代記聞書」二九三章「信をえたならば、同行にあらく物を申すまじきなり。心、和らぐべきなり。・・・・・」のお話の中で、通じ合う心は信心であり、それは求道の姿勢であり生活の姿勢であると話されました。

しかし私たちは現実を横に置いて仏法を戴いております。それは仏法は仏法、現実は現実と完全に分けて、自分勝手の物差しで、自分勝手の生活をしているのです。もっと自分の周りの大勢の人たちと信頼関係を保つべく努力すれば、毎日の家族との生活、職場での仕事など、充実した円滑なものになるはずです。それには常に「春風をもって人に接し、秋霜をもって自らを慎む」の謙虚さが大切と思います。

 このたび都内のホスピス病棟で看護師をしている、五十代の女性の著書「どこから笑顔が」を読み考えさせられました。そこには「ホスピスにはガン末期の方も入院されるが、それはついのすみかとしてではなく、最後のいのちを生きるために来るのです」とあり、数日後の死と向き合う患者に、尊い命の残された僅かな時間を穏やかに過ごしてもらうための、周りの家族やホスピスナースの対応の姿が描かれております。それには患者と通じ合い、信じ合う究極は寄り添う心とありました。人の一生は寄り添い寄り添われて、信じあっての人生と改めて感じました。

最後になりましたが、佐々木先生には平成十二年に始まった第一回護持会総会から長年にわたり一回も欠かすことなく、貴重なご法話を賜り有難うございます。今春からは広島から日野に戻られたとのこと、環境が変わりますがご健康に留意されて、これからも長く続けて戴ければと願っております。また毎々冊子の作成にご尽力下さいます、淡海雅子さま、副住職の池田孝三郎さまに紙上をお借りして厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。                    

平成二十一年六月七日

          第十回護持会総会にあたり   光照寺護持会 山田 恒    

 本冊子は平成二十年六月七日、第九回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。

「通じ合う心と心」というテーマでお話を頂戴しました。『蓮如上人御一代記聞書』を引用されまして、「通じ合う心」ということが成り立つのは「信心」が大事とおさえられました。

「通じ合う」と云うと、「以心伝心(いしんでんしん)」、「阿吽(あうん)の呼吸」といったことが想起されます。又、心から心へ伝わる微妙な境地、感覚のたとえとして、お釈迦様が鷲山(りょうじゅせん)で弟子たちに仏法を説いたとき黙って大梵天(だいぼんてんのう)から受けた金波(こんぱらげ)(金色の蓮の花)をひねって見せると摩訶(まかかしょう)だけがその意味を悟って微笑んだので釈迦は彼だけに仏法の真理を授けたという「拈華微笑(ねんげみしょう)」というエピソードも非常におもしろいと思います。そういう世界を望んだとしても現実はなかなか難しいことがあります。

私達は自我に覆われた存在です。言い換えれば、一人一人が世界観をもってます。お互いに違う世界観を持って共同生活、人間関係を構築します。当然、争いも起こり、自我を肯定したい衝動にかられます。しかしながら自我を肯定するということはすえとおりません。自己卑下か他者を傷つけるだけです。そういう生活は望まず、共に生かされる生活を歩みたいという道(大乗の仏道)を選んだのが求道者であり、念仏者ではないでしょうか。

蓮如上人は「いかに文釈をおぼえたりとも、信がなくはいたずらごとよ」と指摘されます。また、「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり」と云われています。「信心」がなければならない、しかし、「信心」を得たとして自分のものにするものでもありません。『歎異抄』で云うところの「如来より賜りたる信心」です。たすかりようもない私をたすけようと誓っている弥陀の悲願を感ずる心に「本当の自己に遇い」、そして共に「通じ合える」世界に立てる鍵があると思わざるをえません。

先生はこれから二所帯住宅の生活を通して、身近な人と本当に通じ合っていく生活が築けるかどうか実践されていきます。身を通した聞法精進の歩みを益々、拝して参りたいと思っています。

 先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

 又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、淡海雅子様、あとがきを執筆して下さいました山田恒様に多大な感謝を申し上げます。                                                                               合掌 

平成二十一年六月七日
            第十回護持会総会にあたり   光照寺副住職 池田孝三郎


第9回  護持会総会法話 08.6.7 講師;佐々木玄吾先生(豊平道場主)
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