「仏法は、讃嘆・談合にきわまる」

お早うございます。私、先ほど紹介がありましたように、今年の三月末まで広島県の方に居りましたが、今年四月から日野市の方に帰ってまいりました。今日は日野からここまで電車に乗ってやってきましたが、丁度二時間かかります。六時五十五分に家を出まして、ここに着いたのが、八時五十五分でしたので丁度二時間でした。

これから護持会の法話をさせていただきます。まず今日の題は「仏法は讃嘆・談合にきわまる」こういう題で話したいと思います。『蓮如上人御一代記聞書』からこの言葉をとったので一緒に読んでいただきたいと思います。『真宗聖典』二○一条の中にありますのを書き出してもらっております。一緒に読んでみましょう。

 

 

 (資料) 『蓮如上人御一代記聞書』 

二○一 一  前住(ぜんじゅう)上人(しょうにん)(実如)、先年、大永(たいえい)三、蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)二十五年の三月始比(はじめごろ)御夢(おんゆめ)御覧(ごらん)候う。御堂上壇(みどうじょうだん)南の(かた)に、前々住上人、御座候(ござそうら)いて、(むらさき)御小袖(おんこそで)をめされ候う。前住上人(しょうにん)へ対しまいらせられ、(おお)せられ候う。「仏法は、讃嘆(さんだん)談合(だんごう)にきわまる。()()讃嘆(さんだん)すべき」由、(おお)せられ候う。「誠に、夢想(むそう)とも()うべきことなり」と、(おお)せられ(そうら)いき。しかれば、その年、「ことに讃嘆(さんだん)肝要(かんよう)」と、(おお)せられ候う。それに付きて(おお)せられ候う。「仏法は、一人居て(よろこ)ぶ法なり。一人居てさえ、とうときに、二人よりあわば、いかほどありがたかるべき。仏法をば、ただ、より合い、より合い、談合(だんごう)申せ」の由、(おお)せられ候うなり。

                  (『真宗聖典』八九一〜八九二頁)

 

いろいろとこの中に難しい言葉があるから、説明するといいのでしょうが、時間がかかるので省略しまして、私の話とこれを比べながら聴いていただきたいと思います。

 

 「仏法は讃嘆・談合にきわまる」

 

1.極まる  最後のものである。

極まるとは最後のものということです。これはどうしてかといいますと、善導大師という方がおられまして、五種正行ということを言われたのです。善導大師の五種正行ということは「仏法は南無阿弥陀仏に極まる」、お念仏を称えて一生を終わる。六字の御名を称えつつ、という歌がありましたけれども南無阿弥陀仏を称えることが仏法の極まりである。その極まりというところに行くにはやはり、過程というかどうしたらそこまで行けるかという、それを五種正行と言われたのです。どういう内容のものかと言いますと、

   読誦(読む 聞く となえる)

読ということは読むということです。誦ということは口に出してとなえるということです。先ほど『正信偈』を読誦しましたけれど、ああいうのを読誦といいます。まず読誦ということが入り口だということです。読誦というのは読む、あるいは口に出してとなえ、あるいは聞くということです。まず入り口は読誦だと善導大師は言われます。

  観察(考える)

観察ということは何かというと、これは読んだことを考えるということです。今の話は私にとってどういう意味があるか考える。聞きっぱなしではなく考えてみる。

  礼拝(頭を下げる)

礼拝とは頭を下げる。合掌礼拝といって手を合わせて頭を下げる。ご本尊の前に手を合わせて頭を下げる。

称名(念仏申す)

称名とは念仏申すということです。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と念仏を申す。

讃嘆供養(仏徳をほめたたえる)

讃嘆供養とは仏徳をほめたたえる。そうして供養する。御仏飯をあげ、お香をあげ供養する。その仏徳をほめたたえるということが讃嘆供養ということです。

そこで極まるということは、ここにあるように讃嘆供養ということです。仏法は讃嘆・談合に極まるということは、讃嘆供養するということはこの読誦から始まって観察、礼拝、称名、讃嘆供養。讃嘆供養ということが非常に大事なのだと、一番最後のことなのだということです。実は礼拝のところでひとつの断絶があるのです。本を読みお話を聞き考えるということはできるのですが、礼拝、称名、讃嘆供養ということになりますと、念仏の僧伽に出遇って勤行しようと決断するということがないとなかなかできないのです。本屋に行って浄土真宗の本を買ってきて読んで考えることはできるのですが、実際にご本尊を前にして礼拝合掌して頭を下げて念仏を申してお花をあげ、お香をあげるということがなかなかできないのです。

そこで次に書いてあります「仏法は一人居て悦ぶ」とはどういうことでしょうか。

 

2.       仏法は一人居て悦ぶ法なり

   一人で勤行できる

   三ツ折本尊

「悦ぶ」とこの字が書いてあります。悦というのは普通の喜ぶと同じ意味です。悦ぶ法なりとはそういう教えであるということです。仏法は一人居て悦ぶ法なりということは、こういう集まりのところに来て皆と一緒に有難いと勤行することはできるのですが、一人で、例えば親元から離れて東京に出てきて下宿にたった一人でいてもそこで勤行をするのは難しいのです。それで大事なことは一人で勤行できるということです。一人で勤行できる。お寺で皆で勤行することは出来るのですが、しかしお寺から帰って自分の家で一人で勤行するということは難しいです。青年の時も大人になっても年をとっても難しいです。しかし大事なことは「仏法は一人居て悦ぶ法なり」で、一人で勤行ができるということが非常に大事なのです。だから私たちは、「三ツ折本尊」というのを子どもに持たせる。これは親元から離れて田舎から東京に一人出てきた人に「お前一人で勤行しなさい。誰もいないところでも」と。三ツ折本尊は三ツ折になっていて開けば机の上に立てられるようになっている。これは東本願寺の教務所に行けばもらえるわけですが、そういう三ツ折本尊を持たせて田舎から上京させることがあります。そういうふうに遠く離れていったものに本尊を渡してそれで勤行しなさいと言って出しているわけです。その時、大事なことは一人でも勤行しようという決断です。

 

3.       なぜ一人居て悦べるのか

   南無阿弥陀仏に出遇ったから

一人居て悦ぶ法だといっても、一人居て悦ぶには一番大事なことは南無阿弥陀仏に出遇うこと。出遇って念仏申す身になるということがないと一人居て悦べないのです。なぜ、一人居て悦べるのかというとそれは南無阿弥陀仏に出遇ったからなのです。南無阿弥陀仏に出遇って本当に悦ぶ、南無阿弥陀仏に出遇って念仏申す身になったから一人居て悦べる。南無阿弥陀仏に出遇って念仏申す身になったからたった一人居ても寂しくない。そして念仏申して生きていける。これは本当にそうなのです。有難い人は大抵一人居て悦んで生きていく人が多いです。私の母は九十五歳まで一人暮らしをしていました。田舎の大きな家にたった一人で暮らしていても「私はちっとも寂しくない。皆は、寂しかろうから子どものところに行ったら、と言うけれども一つも寂しくない」と言っていました。それはやっぱりお念仏申して生きてきたからです。一人居て悦ぶことが大事です。

それでは、南無阿弥陀仏に出遇うということはいったいどういうことか。

 

4.       南無阿弥陀仏に出遇う

   「他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけり 南無阿弥陀仏」

南無阿弥陀仏に出遇うとは「他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけり 南無阿弥陀仏」ということがわかるということです。他力の悲願とは如来が我々を大悲してくださる如来の本願ということです。かくのごときのわれらとはこのような体たらくのお粗末極まりない私ということです。これは『歎異抄』第九章の言葉です。『歎異抄』を貫く一番大事な言葉だと、私の先生の細川先生は言われます。他力の悲願はかくのごときの我ら、私たちということに取られがちなのですが、私という単数だということです。他力の悲願はこのような体たらくな、お粗末な私のためなりけり南無阿弥陀仏、ということがわかる。それが南無阿弥陀仏に出遇ったということです。このことがわかるのが非常に大事なことです。

「かくのごときのわれら」ということは自己がわかるということです。自己がわかるとはどういうことか。南無阿弥陀仏の(はたら)光明無量寿命無量といいます。光明無量とは照らし照らし破る力が光明無量の(はたら)です。この光明無量の(はたら)きを受けて私自身が救われようのない私といいますかもう決して自分の力で仏様のところへとどく力はないということが本当にわかるそれがかくのごときのわれということなのです。それが光明無量の(はたら)きなのです。光明無量の(はたら)きがないと私自身がわからないのです。どこまでいって自己正当化をしていまして自分はやれば出来るのだ今やらないのは自分に力がまだ残っているまだ頑張りが足りないのだというふうに自己正当化が最後まで付きまとう。私は私の力では如来のところ到達できないということが本当にわかる。これを光明無量の(はたら)きといいます。

 

(1).自己がわかる   光明無量の(はたら)

南無阿弥陀仏の(はたら)き、わけていうと光明無量の(はたら)き。しかしこれがわかっただけでは落ち込んでしまってもう救われようがない、ノイローゼになるより他ないです。もう救われようのない私だ、もう地獄は一定すみかぞかしという私だ、ということになると、私には少しもいいところがないと思うでしょう。だから、試みに自分の奥さんでも(けな)して見なさい。そんなにつまらないのなら、もう私は何の役にもたたないのかというでしょう。自己がわかるということは仏様に照らされた(はたら)きをうのであって相手を責める言葉ではないのです。ところが、私た責めていますから家庭不和になるのですが、本当に自己がわかれば落ちこまなくてすむのです。それ他力の悲願があるからです。それ如来がわかるという

 

(2).如来がわかる   寿命無量の(はたら)

 これを寿命無量の(はたら)きといいます。それを摂取不捨といいます。そこで私が受け入れられるのです。かくのごときのわれらがためなりけり南無阿弥陀仏、と受け取ってもらえる。それが寿命無量の(はたら)きなのです。摂取不捨してくださる如来があったのだというところに自分が受け取れる。自分が受け取れるということが大事なのです。自分が本当に受け取れれば相手が受け取れる。結局、相手が受け取れないということは自分受け取れないことです。相手を攻撃するということは自分が結局受け取れないからなのです。だから、如来がわかって如来の(はたら)きに摂取不捨されるということがとてもとても大事なことなのです。

では本当に仏法を聴いている人はどうなるかということです。家庭円満だということになりますと、お前の家はそうなのかとなります。不平不満が多い私の妻もそこに来ていますから、それが家庭の成就といいたいところなのですが難しいですね。摂取不捨される寿命無量の(はたら)きで本当に私が仏様に受け止められている。そこで私が本当に受け止められていると傍の人たちを受け止めることが出来るのだということ、ここのところが難しいから話しにくいのですが、家庭の成就が出来るのです。相手の話を聞くことができるようになるのです。

そこで次は『「仏法は、一人居て悦ぶ法なり。一人居てさえ、とうときに、二人よりあわば、いかほどありがたかるべき。仏法をば、ただ、より合い、より合い、談合申せ」の由、仰せられ候うなり。』となります。そこで「仏法をば、ただ、より合い、より合い、談合申せ」ということを蓮如上人が言われた。

 

5.「仏法をば、ただ、より合い、より合い、談合申せ」

 談合申せ」ということは、話し合いなさいということです。しかし、談合申せということは讃嘆談合にきわまるということで、讃嘆談合とは仏徳を褒めたたえ信心を語り合うことです。仏法はただより合い讃嘆談合申せと蓮如上人は言われます。このことは本当に大事なことです。家庭でも讃嘆談合できるということは非常に大事なのです。まず、讃嘆談合ということで語り合いなさい。何のためにするのかその目的です。

何のために讃嘆談合するのか。それは非常にはっきりしております。それはこういうことです。前に生まれんものは後を導き、後に生まれんものは前を訪い、子々孫々まで仏法が伝わることを願うというのが目的なのです。『教行信証』の一番最後(『真宗聖典』四○一頁)に書いてあるように、「前に生まれん者は」ということは年をとった者はということです。「後を導き、後に生まれん者は前を訪え」、後から生まれたものは年をとった人たちを訪って子々孫々まで仏法が伝わることを願う。だから、讃嘆談合申せということが成り立つのです。子々孫々までです。子々孫々とは子や孫です。南無阿弥陀仏が伝わることを願うからです。だから、「仏法はただ、より合い、より合い、談合申せ」ということがあるわけです。

   目的 子々孫々まで仏法が伝わることを願う

細川先生は、年寄りの最高の仕事は孫を仏前に導くことと言われました。孫を仏前に導いて孫と一緒に勤行できるのが最高の仕事である。最高とはこの上ないということです。いろいろある中で一番大事な仕事である。一番上等な仕事であるということです。私も今日孫が一緒に来てくれたので嬉しいです。又、ここに来て見ますと赤ん坊が泣いていました。ここの住職と坊守さんのお孫さんです。あそこに抱かれていますね。子々孫々まで仏法が伝わることを願うというそのために談合申せということがあります。ここで大事なことが二つあります。

 

   (1).続ける

   (2).始める(創める)

 

一つは「続ける」ということです。やり始めたことは続ける。「継続は力なり」という言葉があるようにやり始めたことは途中で投げ出さない。途中で投げ出したら何をやっているのだということになります。やり始めたら続けるということが非常に大事なことです。ここの光照寺では「親鸞聖人のみ教えに聞く会」というのがあります。櫟先生がやられております。「大経の会」これは私と住職が交代で毎月やる。「我聞の会」を住職が、「微風学舎」を副住職がやっている。続けるということで初めて生きたものになる。井戸を掘るには水の出る井戸を掘れという。井戸をあっちもこっちも掘ってもみな中途半端で一つも水が出ないのでは、いくらやっても役に立たんでしょう。やっぱりこれは一つでいいのです。一つやって本当に水が出ることが大事です。

 もう一つはどういうことが大事かといいますと、「始める」ということが大事なのです。年をとった人が枯れ木になって朽ち果ててしまうことがあります。ところが日野原先生でしたか、もしあなたが年をとっても創めるということを忘れなかったら、それは老いを超えることが出来るというような意味のことを言われています。始めるという。前のことを踏襲してそのままやるということも尊いことですが、新しいものがそこから生まれ出るということが非常に大事です。ここのところでいえば「聲明サークル」があります。勤行の練習を正しい節でやる。あるいは「絵解きサークル」、絵解きとは親鸞聖人の『御伝絵』がありますが、絵を見て解釈していく。これは新しく始まったのです。「聲明サークル」とか「絵解きサークル」とか。そういうことが新しくここのお寺から始まっていることがお寺が生きているわけです。前のものをそのままやるということも非常に尊いことです。水の出る井戸を掘ることは尊いことです。そこから新しいものが次々と出てくるということが更に大事なことです。そういう「始める」ということ。そこでお前は何を始めたか。

 

  3).私が始めたこと 

 

私が始めたこと。私が始めたことは二つあります。一つはここまで来るのにはじめに言いましたように二時間かかります。駅の階段を上ったり下りたりして来ました。それには体力がないと来られないのです。何しろ私は七十九歳と三ヶ月ですから、八十歳に近いのです。ここに来て役員会に出るのには体力が必要です。そこでどういうことを始めたかというと歩くということを始めたのです。この前、高尾山に登ってきました。やっぱり歩いて体力を付けるということは非常に大事なので歩くことを始めた。次にどんなことを始めたかというと、それは丁度私のそばに大学一年生に入った若者が五人くらいいるのです。十八から二十くらいの同じくらいの大学生です。それと一緒に読書会を始めたらいいのではないかと思いまして、選んだテキストは「青雲の志について」という、サントリーウィスキーという会社を造った鳥居信治郎という人の伝記です。山口瞳という直木賞作家の書いたこれを読む。新潮文庫の中に入っています。四百五十円しました。これを四、五人の青年にこれで読書会をしようと配りました。今、十代の青年に一番足りないのは青雲の志、志がない。何をやったらいいのかわからない。私の孫もそうです。学校に行っているのに何をやったらいいのか、将来何になりたいのかわからないと言いますから、これを読んでサントリーウィスキーを創業するくらいになったらいいと、「青雲の志について」という本を読むことを思い立ちました。若者達が集まって来てくれることを楽しみにしているところです。

以上で今日の話は終わります。もう一度これを読んで終わりたいと思います。『真宗聖典』八九一頁から八九二頁の二○一条に載っています。一緒に読んでください。 


あとがき

 本冊子は平成二十一年六月七日、第十回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。

「仏法は讃嘆・談合にきわまる」というテーマでお話を頂戴しました。これは『蓮如上人御一代記聞書』のお言葉を引用されています。讃嘆・談合ということについて先生は「讃嘆・談合とは仏徳を褒めたたえ信心を語り合うことです。」、「その目的は子々孫々と仏法が伝わっていくことを願う」と仰っています

仏法は現実生活に苦悩している私達衆生を救済しようという(はたら)きです。その(はたら)きは如来の本願として苦悩する私達衆生を目覚まし続けています。本願文の第一願無三(むさん)(まく)(しゅ)の願)には、「たとい我、(ぶつ)を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚(しょうがく)を取らじ。」とあり、苦悩の代表的な地獄・餓鬼・畜生という三悪があるならば、仏として成就しないという。私達は煩悩を抱えた存在です。煩悩が満足すれば喜び、満足しなければ不平不満をこぼす。その煩悩というのは自我を善として肯定するものが根本にあるので、これほどやっかいなものはないのです。しかし、そういう煩悩存在の私達を救おうというのが仏の目当てなのです。

親鸞聖人は『歎異抄』第一章で、「弥陀の本願には老少(ろうしょう)善悪(ぜんあく)のひとをえらばれず。ただ信心を(よう)とすとしるべし。そのゆえは、罪悪(ざいあく)深重煩悩熾(じんじゅうぼんのうし)(じょう)の衆生をたすけんがための願にてまします。」と云われ、苦悩に寄り添う弥陀の本願に深い味わいを感じます。そういう親鸞聖人のお心が蓮如上人に受け止められているのだと思います。

仏法が願うもの、それは、苦悩の只中にあって、人生成就(苦悩を本当に引き受けていけること)を願う。その願いは親鸞聖人、蓮如上人、佐々木玄吾先生、無量無数の諸仏の(はたら)きによって伝えられていきます。

仏法に出遇い、仏法を伝えていく。このことは、光照寺として願っていることであり、護持会の願いとするものであります。子々孫々に仏法を伝えていきたいと思うとき、まず自らが仏法に出遇わなくてはなりません。しかし、「自らが出遇えないからといって、伝えられない」ということではありません。このような疑問を常に抱え持つからこそ「讃嘆・談合」して「信心」を語り合うことが大事であると押さえられるのではないかと思います。混迷し、閉塞した世の中だからこそ、子や孫に仏法を伝えていく人が誕生することを念じています。

 先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、淡海雅子様、校正を手伝ってくれた伊東良英氏には多大な感謝を申し上げます。           合掌

 

平成二十二年六月五日
    第十一回護持会総会にあたり   光照寺副住職 池田孝三郎

第10回  護持会総会法話 09.6.7 講師;佐々木玄吾先生(元豊平道場主)
法話音声MP3