第11回  護持会総会法話 10.6.5 講師;佐々木玄吾先生(元豊平道場主)
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(資料) 「蓮如上人御一代記聞書」 (『真宗聖典』八六七頁)

第六十五条 一 わが妻子ほど不便(ふびん)なることなし。それを(かん)()せぬは、あさましきことなり。宿善なくは、ちからなし。わが身をひとつ、(かん)()せぬものが、あるべきか。

 

おはようございます。今回のお話の題は、第六十五条にあります、「わが身をひとつ勧化せぬ者があるべきか」という題でお話したいと思っております。どういう意味かというと、わが身とは、私です。私だけでも勧化、「勧」とは勧め励まして教化しないものがあるべきか、あるであろうか、そんなことがあってはならない。私自身ひとつを勧化することが大事だという、そういうふうに蓮如上人がおっしゃった、ということを題にしたのです。

毎年ここでお話していることは、そのときに私が、私自身が気を付けなくてはならない、そういうものを話しております。今年、私は三月で八十歳になりまして、人生最終コースになりまして、どうしても自分自身が一番気をつけなくてはならない、心の中で思い行動しなければならないという、そのことを思うのです。それは、私ひとりだけでも自分自身を信心念仏の人にしなければいけないのだ、ということなのです。非常に今まで、うかうか、うかうかしてこの歳までやってきましたので、いよいよ最終コースになって本当にそのことを思うわけです。自分自身の勧化ということは、人と共にあるのです。というのは、私たちは家族と共に生きているわけですから、私の勧化というのは、また同時に我が妻子というのを考えないといけないわけです。身土不二といいますから、自分の事と周りの人たちは一体のものなのですね。ですから、私自身を勧化するということは、周りに必ず影響があるわけです。周りに影響のないような仏法はおかしいわけです。本当にそのことを周りの人と共に勧化するという道をたどりたいと思いまして、こういう講題をたてました。そこで、まず第一にそこにありますように、「わが妻子ほど不便なることなし。」という、

 

(1.)「わが妻子ほど不便なることなし」

これが第一です。私が偉そうに話をしておりますが、実は私の先生、細川巌先生がおられまして、『蓮如上人御一代記聞書』のお話をしておられます。私はそれを杖とも柱とも支柱にして、そのとおり話しているわけでして、別にその本を読んでいただければ同じようなことを言っているわけです。それを読んで感想を話させてもらっているわけです。そこで本文を一緒に読んでみましょう。 『蓮如上人御一代記聞書』の中にあります。

 

第六十五条

一 わが妻子ほど不便なることなし。それを勧化せぬは、あさましきことなり。宿善なくは、ちからなし。わが身をひとつ、勧化せぬものが、あるべきか。

 

そのことについてですね。「わが妻子ほど不便なることなし」、不便とはかわいそうなもの。私の妻や子ほどかわいそうなものはいないと、まずこれですね。私たちはこのように思っているかどうかですね。三食昼寝付きで、すいぶん養っているのでとても不便でかわいそうなどと思ったことがないのですけれど、仏法を聴いていきますと、「わが妻子ほど不便なることなし」という自覚が生まれるのですね。それは、結局私自身の宿業といいますか、行い、言葉、そういうものがものすごく妻子に影響するのですね。そこで本当に気を付けさせてもらわなくてはならないということがある。私も長女の夫婦と一緒に、日野で二世帯同居で暮らしているのですけれど、一緒に暮らしてみると非常に自分の娘の欠点が目に付く。なんと言っても、私の娘は非常に体が弱くて面倒くさがり屋で、草を抜け、と言っても、中々できないと言う。それを見ていて思うんです。私とよく似ているなあと。結局、自分自身の業といいますか、姿がそのまま子供に反映しているのです。また、女房が言うのですね、私はまた娘に注意された、と。それはよく見ていると私の女房に非常によく似ている。これは、非常に自分自身の反映、自分の親の姿を写しているので責められないなあと思うのです。そういうことを、「わが妻子ほど不便なることなし」と言っておられるのだと思うのです。また、龍樹菩薩という人は『十住論』というのを書いてですね、菩薩というのは、家の過ちや悪いことを知らなければならない。家はこれ貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)愚痴(ぐち)の住処であるのだ、と。「凡夫はこの家のなかに住しなすべからざるをなし、とくべからざることをとく」。本当にそう書いてありますが、私の家も例外ではありません。この家の中で言ってはならないことを言い、してはならないことを行っている、そういうことを自分で思うのですね。しかしですね、その次はどういうことかといいますと、「それを勧化せぬは、あさましきことなり」。

 

(2.)それを勧化せぬは、あさましきことなり

これはどういうことかといいますと、その妻子を勧め励まし教化していかないということは情けないということであり、言語道断である。妻子を勧化することが、一番大事なことである、こういうふうに言っているのです。勧化するとは、まず自らを慎ませていただかなくてはならないのだ、ということを今ここに私は思うのです。何が私自身悪いかといいますと、人の悪口をとても言うのです。人の悪口を言ってはいけない。そこを特に気を付けなくてはいけないのだと。特に気を付けなくてはいけないのは、法を説く人の悪口を言ってはいけない。坊さんの悪口を言うことは一番悪いことです。坊さんの悪口を言って勧化することはありえないのです。本当に私自身が気を付けさせていただかなくてはいけない。だから、たとえ自分が殺されても、法を説く人の悪口を言ってはいけない、というふうに龍樹菩薩は言われるのです。そこで本当にそのことを私は思うのです。私どもの先生は、勧化するものの根本は何か、ということを言っておられます。勧化の根本は何かといいますと、家の主人は、仏壇の仏様である。この家の主人は私ではないのだと。この仏壇の仏様は家の主人である。仏壇の仏様である。仏壇の仏様を本尊というのです。名号の場合もありますし、木像の場合もありますけれど、家の主人は仏壇の仏様、本尊である。

 

@      家の主人は仏壇の仏様(本尊)である

もし、家の主人が仏様であったなら、これにお参りして、お仏飯をお供えし、お線香をあげ、お灯りをつけ、お花をあげるというのが一番大事なわけです。そういうことをしているかが問題です。そこで朝晩の勤行をしているかを教えられたのです。

 

A      朝晩の勤行を怠らない

私は偉そうにこういうところでお話をしておりますが、私の様子は女房からですね、あなた勤行をしないね、勤行しよう、と。いや、後から、ご飯食べてから、と言う。こういうことを言ってとばすことがあるのですけれど、その点、私のお祖母さん、八十何歳で亡くなったのですけれど、朝晩の勤行を怠ることはなかったです。こういうところで話はしなかったですけれど。本当にこれはあいすまないことだと思うのです。それは、長いお育てを蒙りながら、本当にこういうことが大事だということに信順しない、それに従わない様子なのです。私の先生がいつも言われたのです。君のは信順の順ではなくて狎(なれ)だ、と言われたのです。君は本当に人の話に従うのではなくて、ケモノへんだと。狎れているだけだ、と非常に怒られたのが昨日のように耳の底に留まっています。狎れ狎れしいというのは、上の空ということ。家の主人は仏壇の仏様(本尊)であると聞き、朝晩の勤行を怠らないと聞きながら、後でとか、今はビールが飲みたい、というのは本当に順ではなくて狎れているのだ。これが凡夫だといって開き直っているのだ、それでは勧化することはありえないのです。次に「宿善なくは力なし。」

 

(3.)宿善なくは力なし

その妻子が昔から宿善という、昔々からその妻子にかかっている、善根がなければ致し方ない。力がないのだ。宿善なくば力なしと言われる。宿善とは過去からの善根の蓄積なのです。一人ひとりの上に、如来の誓願がかけられている。十方衆生と呼びかけられている。宿善のないのは仕方ないのですが、しかし、蓮如上人も『御文』の中で「宿善開発して善知識にあわずは往生はかなうべからず」と『御文』(『真宗聖典』七九〇頁)の中で言っておられます。宿善がないというのは、宿善の開かれる時が熟さないということで、具体的には良き師、良き友に出会わない、出会ってもそれを良き師、良き友と思わないで、その勧め励ましを聞き流して、上の空でスーッと通ってしまって、それが耳に入らない。そして信順しない。そういうことを宿善なしというのです。亀井勝一郎という人は、「愛の無常」という本の中で、人間生成の順序ということをいわれた。

 

人間生成の順序

人間生成とはどういうことかというと、人間が生まれ変わる。人間が生まれ変わるとは、信心が成就するということです。信心念仏の人になる、ということが人間生成である。それには順序がある。

 

1.           考える

2.           迷う

3.           であい

4.           自分の言葉を持つ

 

これが、人間生成の順序です。最後に自分の言葉を持つ。自分の言葉とは南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、とお念仏を称えることが人間生成の成就ということで、信心の成就ということです。念仏の人になるということは、信心の成就ということなのです。だから、これで考えると宿善なしということは、どういうことかということですね。それは考えるの反対、考えないということです。

 

1.            考える ←→ 考えない (生きる道を)

自己中心の思いに閉じ込められて、本当に自分がどう生きたらいいか、本当に生きる道を考えない。たとえ考えても、どのような道を進むべきか、真実とは何かと迷い苦しむことはない。迷い苦しまない。真実とは何かということに迷い苦しまない。したがって問題意識がないのです。

 

2.            迷う ←→ 迷い苦しまない

迷い苦しまない。自分の進むべき道、問題意識がない。だから、かくあれかし、という一念の発生がないのです。一念が起こらない。たとえ迷っても、ただ迷うだけでこうありたい、かくあらねばならない、と願う一心が起こらない。つまり中途半端なのです。たとえ迷っても徹底的に迷わない。中途半端に終わる。

 

3.           かくあれかしと願う一念の発生  ←→ 中途半端

中途半端は怖いですよ。なぜ怖いかというと、たとえば自動車の運転免許を取りに行ってもですね、路上運転までしても、その教習所の指導員が気に食わない、と言って止めるという人がいる。運転免許を取りに行って、大方もうできるといっても、指導員が気に食わないといって止める。坊さんが気に入らないとは言わないけれども、もう止めた、ということでは、これは中途半端で終わる。中途半端で終わるというのは非常に困るのです。したがって、出遇いがないのです。出遇いがないということは、どういうことかというと、良き師、良き友の勧め励ましが聞こえないのです。教えとの出遇いがない。良き師、良き友とわからない。したがって、教えと出遇わない。教えとの出遇いがない。教えと人との出遇いがない。こういうのは宿善開発しないという状態なのです。

 

    4.  であい  ←→ 教えと人との出遇いがない

宿善開発しない妻子に対して、どうしたらいいのかということです。それは力なし。宿善なくば力なし。力なしで放っておくのか。そうではなくて、時機純熟を待っている他はないのです。時機純熟を待つということを、法蔵菩薩の(ちょう)(さい)永劫(ようごう)の修行という。仏法を本当に聞いていったら相手の時機熟を待つことが出来る人が生まれるのです。私の家内が言いますよ。どのように言うかといいますと、二世帯で同居してみてつくづく思うことは、ああせい、こうせいと言ってせっつかないことが大事だ、と。私の女房は、目から鼻に抜けるほどなんでもよく気が付くから、あそこが悪い、ここが悪い、とよくわかるわけですけれど、それを言わないことが大事です。私はいいことに気が付いたねと言っているのですが、そういうことが大事なのです。そして最後に、自分の言葉を持つ。それは念仏を申す、ということです。

 

    5.  自分の言葉をもつ (念仏を申す)

人間はお念仏を申すということが、一番大事なのです。これが一番大事なのです。南無阿弥陀仏が自分の言葉になる。人間の時には限りがあるのです。長くても百年。百年生きる人はあんまりいないですね。限度がある。限度があることを八十歳になってしみじみ感じます。どうして感じるかというと、行った事がない鍼灸に行って、あっちっちい、と言って我慢する。この五月に、足が痛いので生まれて初めて鍼灸をして貰ったのですが、こういうことは今まで経験したことがないのです。いよいよ最終コースだなあと感じるのです。人間の時には限りがある。しかし、如来の時は寿命無量。南無阿弥陀仏は寿命無量。永遠の時を賜る。念仏者は永遠の時を頂いておる。だから、いつまでも待つことができる。本当にそういう身を賜っているわけです。本当にこんなに素晴らしい教えを頂いている。だからひとつも寂しくない、と言いたいのですが、なかなか死ぬのではないかと、落ち込んだりしてそうも言えないのですが。本当に、そういう念仏をして生きる道を賜っていることはありがたいなあと思いますね。そこで最後に、「わが身をひとつ、勧化せぬものが、あるべきか。」

 

(4.)わが身をひとつ、勧化せぬものが、あるべきか。

妻子を勧化するということは、還相(げんそう)というのですね。妻子を勧化するのは還相(げんそう)還相(げんそう)というのは、他へのきかけ、あるいは利他(りた)といいます。他を利する。それに対して、わが身を勧化するというのは往相(おうそう)。お浄土に向かって歩む。往相(おうそう)というのは個の確立。自己自身の確立。これを自利という。自分の利益です。

 

還相(げんそう)   他への働きかけ 利他

往相(おうそう)   個の確立    自利

 

どっちが中心かというと、往相(おうそう)が根本なのです。本当に往相(おうそう)していく者は、還相(げんそう)となって展開するのです。私たちは往相(おうそう)ということにかえらなくてはならない。わが身を勧化するというのは、聞、信、称といわれる。

 

わが身の勧化((もん)(しん)(しょう)

 

わが身の勧化というのは、聞、信、称、といわれる。聞というのは聞きぬくこと。聞いて、聞いて聞きぬいていく、ということ。一生聞法者として、被教育者として、教育を受けるものとして、良き師、良き友の弟子として、生き貫いていくというのが聞なのです。良き友の弟子として生き貫いていく。被教育者になるというのが聞なのです。

 

  聞   よき師 よき友の弟子となって

信というのは何かというと、それは、信知、信順、信受、といわれる。

 

  信   (しん)() (しん)(じゅん) 信受(しんじゅ)

信知というのは本当にわかるということです。いよいよ聞いて自己がわかり、如来がわかるということです。それが信知なのです。信順とは何かというと、その良き師、良き友の教えに順っていく、ということなのです。本願の教えに順っていくということは信順なのです。信受とは何が起ころうと、私の心に何が起ころうと、これが私の本質、これが私、南無阿弥陀仏、となって念仏することを信受といいます。称ということは念仏申すということなのです。

 

  称   念仏申す  唯、念仏。

(とな)える。念仏申す。(ただ)、念仏ということなのです。以上が、聞、信、称なのです。この三つの中で一番大事なものは何かというと、聞なのです。この三つの中で一番大事なのは聞くということなのです。だから大無量寿経大無量寿経というお経は、聞の宗教、聞け、聞け、と書いてある。だから、

 

たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて

(ぶつ)御名(みな)をきくひとは ながく不退にかなうなり

 

という、『和讃』があります。そこで私の体験を話したいと思います。私は、学生時代からずっと正月休みに教育部会という集会に出席していたのです。それは、三泊四日で一月の二日から五日まで、広島の光明団本部というところで行われ、今も続いているのですが、学校の先生が多く集っている。私も教師養成の師範学校にいましたから、教育部会というのに参加していたのです。ある年、風邪をこじらせて肺炎になって、教育部会を欠席したのです。丁度七十二歳の頃、今から思うのですが、それ以来、欠席していたのです。ある時に私が言ったのです。どういうふうに言ったかというと教育部会は寒いし、人も大勢だし、慌ただしいし、歳をとって欠席しています、と言ったのです。そうしたら、歳の若い総務さんからなんと言われたかといいますと、貴方のその姿勢が教育部会を沈滞化させているのだ、と。若い人はあなたを見ているのです、と。私を見ているのかと思って本当に私は返答できませんでした。黙ってしまったのです。そして、これは寒くて風邪をひいても行かなくては、と本当に思って出席したのです。そうしたら、何とか勤められたのです。命がけの聞法ということです。

 「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」という命がけの聞法とはこのことだったのか、というふうに思ったのです。そこに私におけるわが身ひとつの勧化があるわけですが、それは同時に、宿善開発しない人を背負って聞く。宿善開発しない人にせっつかない、背負って聞くのだといつも私の先生は言っておられたのです。そのことだということに気がついたのです。私ひとりがすすんでいくということが一番大事なことなのだなあと思ったのです。光照寺でも聞法会をしよう、聞法会することが一番大事だといって住職が言われます。しかし、私たちは上の空で右の耳から聞いて左の耳に抜けて、そうですか、というようなことで、それを本当にわが身のことと受け取らない。これはやはり本当にわが身ひとつを勧化するという道に立つ人にとっては間違いなのです。私もそれで気が付いたのです。

そこで、私は「大経の会」があります。住職と私が交代でやっているのですが、自分の当番の時は、ちゃんとして出てきてここでやるのですが、住職の時にはまあ失礼しようというようなことだったのですが、ある時から私は当番でない時も出席してこれは聞かせてもらわなくてはならない、と決心して今続けているのです。そういうことがありまして、出席しようと決心したのです。それが、「わが身をひとつ勧化せぬ者があるべきか」という蓮如上人の『御一代記聞書』に対する私の応答だと思っております。

以上で私の話を終わります。ありがとうございました。

 

あとがき

 本冊子は平成二十二年六月五日、第十一回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。

「わが身をひとつ勧化せぬ者があるべきか」というテーマでお話を頂戴しました。今回も『蓮如上人御一代記聞書』のお言葉をテーマにお話いただきました。先生ご自身の現実問題を踏まえてお話いただいたことは、仏法が身近に感じられ、同時に仏法を味わって現実を生きるということは大変なことと感じさせていただきました。

先生は、「宿善がないというのは、宿善の開かれる時が熟さないということで、具体的には良き師、良き友に出会わない、出会ってもそれを良き師、良き友と思わないで、その勧め励ましを聞き流して、上の空でスーッと通ってしまって、それが耳に入らない。そして信順しない。そういうことを宿善なしというのです。」とお話されています。「宿善がない」というのは、単に環境や土徳ということではなくて、自分自身の受け取りの問題性に眼が向いてないということをご指摘いただき、身につまされる思いです。また、「わが身の勧化」というのは、「聞・信・称」という、一生聞法者として、被教育者となり、自己がわかり、如来がわかる。本願に信順し、念仏申す。この三つの内、なかでも「聞の宗教」と云われるこの「聞」に注目し、「聞く」ということは、『和讃』にあります、「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて」という内容をもった「命がけ」の「聞法」であるということを教えていただきました。

平成二十三年三月十一日発生した「東北地方太平洋沖地震」(地震・津波・原発)の災害によって身心の痛みを抱き、更なる不安を抱えたまま現代を生きる私達は、益々自己を明らかにして念仏申すことが待たれています。

 先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

 又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、淡海雅子様、校正を手伝ってくれた伊東良英氏には多大な感謝を申し上げます。合掌

 

平成二十三年六月五日

    第十二回護持会総会にあたり   光照寺副住職 池田孝三郎