第12回  護持会総会法話 11.6.5 講師;佐々木玄吾先生(元豊平道場主)
法話音声MP3

(資料) 「蓮如上人御一代記聞書」 (『真宗聖典』九○二頁)

第二五○条 一 人は、そらごと申さじと、(たしな)むを、随分(ずいぶん)とこそ思え、心に(いつわ)りあらじと、(たしな)む人は、さのみ多くはなき者なり。また、よき事はならぬまでも、世間・仏法、ともに心にかけ、(たしな)みたき事なりと云々

 

 皆さん、おはようございます。只今紹介されました、佐々木玄吾と申します。今日は、「蓮如上人御一代記聞書」第二五○条というのが資料の中にありますので、それを一緒にいただきたいと思います。

 まず始めに文章を読んでいただきたいと思います。

 

第二五○条 一 人は、そらごと申さじと、(たしな)むを、随分(ずいぶん)とこそ思え、心に(いつわ)りあらじと、(たしな)む人は、さのみ多くはなき者なり。また、よき事はならぬまでも、世間・仏法、ともに心にかけ、(たしな)みたき事なりと云々

 

 そこで、「そらごと申さじと、(たしな)む」を題といたしました。「そらごと申さじ」ということは、嘘を言わないということです。しかし、嘘を言わないということを嗜むということは、小学生でも、「オオカミが来た」という嘘を言って、とうとう人が相手にしなくなってオオカミに食べられてしまった、という話を知っています。小学校の生徒から大人まで誰でも、「そらごと申さじと、(たしな)む」という教えはあるわけですしかし、ここで言われるのは「また、よき事はならぬまでも」とあるところをみると、「そらごと申さじ」ということはよき事なのですけれどもできないこともある。しかし、信心の人においては、そういうことができないまでも、すなわち「よき事はならぬまでも、世間・仏法、ともに心にかけ、嗜みたき事なり」と、こういうことになって、信心の人においては、特別に「そらごと申さじと、(たしな)む」ということが大事なことである、とこういう教えなのです。そこでまず文意、文の言葉です。

 

一 文意

   心に偽りあらじ=用例

   偽り飾りて名をたてんとす

 

それは、人は嘘を言わぬと心掛けることを、随分、随分とは精一杯のことと思いなさい。そして、心に思うことと行動との間に偽りがないように心掛ける人はそれほど多くはないものです。また、善い事はできないまでも、世間のことも仏法のことも共に悪い事は止め、善い事をするように心掛けたいものです、と。これが、蓮如上人のご晩年のご注意なのです。

そこで、言葉の意味ですけれども、「心に偽りあらじ」というそれは、広辞苑で引いてみますと、用例としてこのように書いてあります。偽りということは、「偽り飾りて名を立てんとす。徒然草にある」とこういうふうにあります。「偽り飾りて名を立てんとす。」どういうことかと言いますと、自分の心を偽って、飾って、人によく見せたい、そして評判をよくしようとする。そういうことを止めることが大事なのだ。「偽り飾りて名を立てんとす。」結局、虚栄心と言いますか、そういうもので自分を飾っていく。それが「心に偽りがある」ということであって、それを止めるということが非常に大切なことである。だから、私も今日、五分遅れてきましたら、住職から「会長というものは、皆が集まっているのに遅れて来るのは非常にそらごと申している」と、お叱りを受けて、本当に申し訳ないことだと謝ったわけです。そこで、普通の人もそういうことに心掛けなければならないけれども、信心の人においては特に心掛けなくてはならないと言っているのです。それはどうしてかと言うと、「よき事はならぬまでも」というところにあるのです。普通は世間でよき事をせよと言っているのに、信心の人においては自分というものが何であるかということがわかって、よき事ができないものであるという自覚、そういうものを信心と言うのですが、そういう人においてはなお一層心に掛けたいのだということです。これは、「信の上は」ということなのです。

二 信の上は

  信への道(聞法・勤行・念仏)

 

 信心獲得したからには、ということです。信心を獲得する。大事なのは信心への道ということです。信への道。信に到達する道。それを毎回話しているのですけれども、これは大分徹底して、それは「聞法・勤行・念仏」だと、誰もがこの光照寺では言うようになったのです。これが信への道です。これしかないのだ、と住職はいつも言われます。しかし、信心への道というのは非常に険しいもので、山に登るようなものなのです。だから『御文・五』には、「聖人(しょうにん)一流の御勧化(ごかんけ)のおもむきは、信心をもって(ほん)とせられ候う。」(八三七頁)といわれるように、信心を獲得するということが一番大切なことなのです。それはしかし、簡単なことではないということなのです。

 三木清という人が、『人生論ノート』というのを書いて、その後ろの方に「個性について」というのがあります。個性というのは、天然自然に誰にでも与えられているというように思うかもしれないけれどもそうではないと。個性というものは、本当に一生懸命努力して獲得すべきものであると書いてある。それは、個性を本当に発揮し、赤色(しゃくしき)赤光(しゃっこう)白色(びゃくしき)白光(びゃっこう)と、そういうふうになるためには、それは努力精進しなくてはならない。獲得するためには、妨げになるものが三つある。どんなものが妨げになるかと言うと、三木清という哲学者が言うのには、「我執、自己中心。そして傲慢、私はできるという高上り。怠惰、怠ける。」そういうものが個性というものを獲得する邪魔になると言われます。この信心への道も全く同じであって、我執(自己中心)、そして傲慢(高上り)、怠惰(怠ける)、そういうことが信心への道として、それと戦うことが非常に大事なのです。それでなければなかなか信心というものは得られない。その上でのことだと、これは。

そこで私どもの先生は、山に登るようなもので、それには大体三つの関所があると言われました。それはどんな関所か。信心の人が出発していくには山に登るようなもの、三つ関所があって、そこに立札が立っている。

一つはどういう立札か。「継続一貫」という立札である。しっかり続けてやりなさいという立札が立っている。ここの聞法会でも聞法するとこう言いますが、出席したり、出席しなかったりするのではなく、続けてやるということが大事なので、欠席しないでやることが非常に大事なのです。私もこの聞法会で、そういう人ができているような気がして非常に有難いと思っています。そうして登るのですが、マンネリ化がおこるのです。そして、やっても、やっても到達しない。

次に立札がある。その立札は何という立札かと言うと、「命を懸けよ」という立札です。命を懸けよとは、現代風に言えば「積極的聞法」。積極的聞法とは、私の先生が言われるには、金を出して、時間を使って、力を出して、そういうようなことを積極的にやる。役員になっていろいろ仕事をするというのも、積極的聞法の一つだし、また、泊り掛けで御法を聞きに行くということも積極的聞法なのです。それには先の三つのこと、「我執・傲慢・怠惰」という自分を見つめて、さらに努力をしなくてはいけない。そこは「頭を下げて」ということが要求されるのです。頭が高いと、「なあに、お寺の為にしてやっているのではないか」ということで自分のことにならない。そこで要求されることは、頭を下げて聞くという、そういうことが要求されます。ところで、これをやったら信心に至るのかというと、それをやって登って行っても信に到達しないのです。

最後の立札を読まなくてはいけない。最後の立札には何と書いてあるか。それは「君にまごころはあるか」。つまり、まごころをもってやっていたのか。ただ恰好付けてやっているだけではないか。そこではじめて、本当にそら事ばかりで、まごころのない私であるという自己に気が付いて転落するのです。転落していくということが実際起こるわけです。その時にどういうふうに転落するかと言うと、そら事を言い偽り飾って名をたてんとする、それは名をたてんとするのは私のことなのだ。人のことだと思っていたが、それは私自身のことなのだ。だから、これが本当の私、そら事を言い偽り飾っているのは私のことだと。「これが本当の私、申し訳ございません、南無阿弥陀仏。」となる。それが転落した姿なのです。申し訳ございません。南無阿弥陀仏。

 

(決心する)

マンネリ化

金・時間・力

(頭を下げて)

転落 (これが本当の私 南無阿弥陀仏)

 

親鸞聖人も、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。」(『歎異抄』六二七頁」)南無阿弥陀仏、と言われたのです。そこに信心念仏の人というのは、転落したところに起こる事実なのです。これがまずあって、信心への道ということがあって、それから後に、「よき事はならぬまでも」ということになるのです。

 

三 よき事はならぬまでも・・・嗜む

   ? 頼りになる人が生まれる

   ? 倒れるまでがんばる

 

 「(たしな)みたき事なり」と、よき事はならぬまでも嗜みたいことだということなのです。実際こういう体たらくな私なのだから、実際こういうことのできない私なのだから、こういうことをやれと言われてもできない。申し訳ありません。しかし、自分においてはやらせていただきたいと思う。こういうふうになるのです。実際、信心の人というのは、嗜んだ結果はどういう人になっているかということが色々書いてあります。それには、非常に頼りになる人が生まれていく。信心の人は頼りになる人。よき事はならぬまでも嗜みたきものなりという人は、どういう人がなるかというと頼りになる人が生まれる。

だから、「蓮如上人の御一代記聞書」の九八条にこういう言葉があります。(八七三頁)

 

「世間にて、時宜(じぎ)しかるべき、よき人なりというとも、信なくは、心おくべきなり。」

 

その人に信心がないならば、どんなに世間でその場その場で上手に物事を解決している立派な人と言われていても、信心のない人は心をおくべきなり。心をおくべきなり。距離をおくべきなり。その人を本当に信用してはならない。つまり、警戒しなくてはならない。

 

便(たより)にもならず。たとい、片目(かため)つぶれ、(こし)を引き候うようなる者なりとも、信心あらん人をば、たのもしく思うべきなり」と、(おお)せられ候う由に候う。

 

たとえ片目つぶれて腰を引き候うとは、足を引いて身体障害者という人も、信心の人は頼りになるのだと。つまり頼りになるとは、その人がもしやると言ったら本当にやる。行くと言ったら本当に行く、止めると言ったら、本当に止めるような、頼りになる人がそこに生まれてくる。だから蓮如上人は、長い自分の求道の生活の中で、そのことをしみじみと考えられ、気が付かれたのだと思うのです。

その次は、倒れるまでがんばる。これはちょっとオーバーですけれど。私がここで(光照寺の)年表を見てみると、第一回、第二回の報恩講は私の先生である細川先生が来て話をしておられます。もう二十年くらいになるのですが、その先生がですね、報恩講が終わり、ここで宴会がありました時に、私も一緒にお酒を飲んでいたのです。そうしたら、ここの住職のボート部の友達がそこに座っておられた。一緒になって楽しそうにしておられて、ここに来たら他では会えない人に会えて本当に嬉しいと、とっても先生が喜ばれたのです。そしてぐらっと私の方に寄り掛かってこられたので、あれ?と思って、これは酔いすぎたなあと思って心配したのです。それから、タクシーで日野まで一緒に帰ったのですが、その時のことを思い出します。二十年くらい前の話なのですが、先生は、「来年もまた来るからなあ、来年もまたあなたに会おう」と言って、とっても喜んで帰られた。しかし、それっきりで、あのあと胆管癌という大手術をされて、それから二年余り生きておられましたけれど、もう光照寺へは来られなくなって、やっぱり病気とか死とかには、いくらやるといっても勝てないものだなあというふうに思いました。やっぱり、(たお)れて(のち)()むという言葉がありますけれど、本当に先生は非常に頑張られたなあと今も思うのです。約束を本当に守る人でした。

そこで、今度は私の嗜みです。

 

四 私の嗜み(あと十年生きたい)

 自分自身のことを話してみたいと思います。私はどういう嗜みを考えているかというと、あと十年生きたいと。今、八一才ですからあと十年生きて九一才になったら、親鸞聖人を越える歳になるのです。この大変な世の中を長く生きぬきたい。そういうふうに思っている。それにはお手本というのがあるのです。

 

   八一才 ― 九一才

   真珠王 御木本幸吉  七六才・・・九六才

 

お手本というのは、これもお聞きした話なのですが、真珠王といわれた御木本幸吉という人がいらっしゃいます。その方が七六才の時、東大の自分の主治医に尋ねられたのです。どのように尋ねられたかというと、「私、今七六才だが、どうしてもあと十二年生きたい。八八才まで生きたい。どうしたらそこまで生きられるでしょうか」と。そうしたら、その先生は四つのことを言われた。

 

1、 健康で長生きしたいと思うこと(決心)

2、   仕事を減らすこと

3、   小魚(いりこ)と海草を食べること

4、   夜はトイレに行かぬこと 尿瓶でとること

 

一つには、健康で長生きしたいと思うこと。自分自身が心の中で決心して、何としても私は健康で長生きしたいと思うこと、それが第一だと。その決心が一番大事なのだと。

二番目に、仕事を減らすこと。やっぱり、若い時のようにそのままやるのではなくて、自分に見合った、体力に見合った仕事。やることを減らす。私も何を減らしたらいいのかと考えた。護持会会長を辞めるというのが大事なことではないかと思って、住職に是非辞めさせてくださいと言って申し出たのですが・・・・。

そして三つ目は、小魚と海草を食べること。小魚というのは「いりこ」と書いてあります。こういうのはできますよね。実際今はどこでも手に入る。小魚と海草は。

そして四番目は、夜はトイレに行かぬこと。尿瓶でとること。昔のトイレは寒い所にありましたからね。そこで脳卒中を起こすことがあるのですね。そしてそのことを守って、御木本幸吉という人は、それから二十年生きて九六才まで生きられた。実際、こういうふうに生きてみせたことが、真実味があります。本当にこのことを実行した、この方は。いいと言われると多くの人がやり始めるのですが、大抵三日坊主で終わります。これはいい事だと思ってもなかなかできない。が、この人は九六才までそれを実行した。そこがやっぱり偉い人ですね。

そこで、私が考えるのはこのことですね。これが一番大事なのです。健康で長生きしたいと思うこと。それの第一がこの決心、この意欲です。この意欲が一番大事なのです。結局意欲が無くなるのですよね。生きる意欲が。だから死んでしまうのです。意欲を持つことが一番大事なのです。その意欲とは、どういう意欲を持ったらいいのかということです。ここにも年輩の方が沢山いらっしゃいますね。私もどういう意欲を持ったらいいのかということを考えます。それは、こういう意欲を持ったらいいのだというのが、私の先生の教えなのです。それは、孫を仏前に導く。

 

孫を仏前に導くことは、年寄の最高の仕事である。

 

 孫を仏前に導くことは、年寄の最高の仕事であるということなのです。孫を仏前に導くことは、八一才の年寄の最高の仕事である。こう言われた。この意欲は、孫を仏前に導くという意欲なのです。そういう意欲があれば、それが一番純粋な、難しい言葉で言えば、自信教人信。自らも信じ、人を教えて信ぜしめるという、そういう意欲が最高の意欲なのだ。それは、そのために長く生きたいと思うことです。それが一番大事だと言われたのです。今回もここで、この光照寺の総会の中で小さい子供さんが前に出て、歌を歌っていました。そういうことは年寄がいらっしゃいと言って、その人を支えるというか、抱えるというか、ここへ来ることが喜びとなる。そういう力はお祖父さん、お祖母さんにあるのです。

昨年から光照寺にポニークラブというのが出来ました。自分の孫でなくても、人の孫でもいいわけなので、それを支えてこの年寄の最高の仕事であるという光照寺の仏教子供会を是非とも盛んにしていただければ、この健康で長生きしたいというものが内容のあるものとなって、結果として光照寺の発展になるかもしれないし、それから我々の信心というものがいよいよ深まっていく、その一助になるかもしれないと思います。実際に、子供の時の合掌し念仏する体験が宿善となって成長して、念仏の人が生まれることがあります。現在、大人になって聞法する人の多くは、子供の時に、お祖父さん、お祖母さんに連れられてお寺に参ったことのある人だと言われます。私は、光照寺のポニークラブからそのような人が生まれることを期待しています。ご静聴ありがとうございました。



あとがき
 

 本冊子は平成二十三年六月五日、第十二回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。

「そらごと申さじと、嗜む」というテーマでお話を頂戴しました。今回も『蓮如上人御一代記聞書』のお言葉をテーマにお話いただきました。テーマを見ても非常に難しいことと感じましたが、ご法話を拝聴していて内容は想像を超えた深さを味わいました。

三つの立札(「継続一貫」・「積極的聞法」・「君にまごころはあるか」)のお話はよく聴いていたお話ではありましたが、一つ目、二つ目を実践するとなるとこれほど困難なことはありません。また、「まごころはあるか」と問われれば、あるとは云えません。しかし、「まごころがない」とも云いきれないところに問題があり、自分を丁度いいところに落ち着かせているということがあります。先生は、「実際こういうことのできない私なのだから、こういうことをやれと言われてもできない。申し訳ありません。しかし、自分においてはやらせていただきたいと思う。こういうふうになるのです。実際、信心の人というのは、嗜んだ結果はどういう人になっているかということが色々書いてあります。それには、非常に頼りになる人が生まれていく。信心の人は頼りになる人。よき事はならぬまでも嗜みたきものなりという人は、どういう人がなるかというと頼りになる人が生まれる」とお話されています。

本当に頼りになる人に出遇いたい、自分もそうありたい。そういう心奥底の声に耳を傾けていきたいと思います。

 先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

 又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、護持会役員の淡海雅子様、校正を手伝ってくれた伊東良英氏には多大な感謝を申し上げます。合掌

 

平成二十四年六月二十三日
第十三回護持会総会にあたり   光照寺副住職 池田孝三郎