第14回  護持会総会法話 13.6.30 講師;佐々木玄吾先生(元豊平道場主)
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(資料)

『蓮如上人御一代記聞書』(『島地聖典』三十の二二頁 『真宗聖典』八八二頁)

第一五一条 

 「()れば(いよいよ)かたく、(あお)げば(いよいよ)たかし」ということあり。(もの)()りて()(かた)きと()るなり、本願(ほんがん)(しん)じて殊勝(しゅしょう)なる(ほど)()るなり。信心(しんじん)おこりぬれば、とうとくありがたく、(よろこ)びも増長(ぞうじょう)あるなり。

 

(注)「論語」に「仰之弥高、鑽之弥堅」とある。鑚は、火打石へ火打金を当てて火を打つこと。

論語の転用として「キレバ」は「聞けば」。法を聞けば、信心堅く、広大殊勝な本願を仰信する、

の意。

東本願寺『真宗聖典』では、「聞けば」となっている。(底本、真宗仮名聖教所収本)

 

 

 

 

(板書)

()ればいよいよ堅く (あお)げばいよいよ高し       

『論語』子(かん)

  顔淵 ・・・ 孔子

  私  ・・・ 細川先生

1.()れば ・・・ 人

  聞けば ・・・ 法

 

2.本願を信ずる

   教 ― 教典     教 ― 三部経

   信 ― 信頼     行 ― 南無阿弥陀仏の働き

   行 ― 実行     信 ― 二種深信

   証 ― 結果     証 ― 正定聚

おはようございます。

 ()ればいよいよ堅く、(あお)げばいよいよ高し」

 

こういう題でお話しさせていただきたいと思います。これは、『蓮如上人御一代記聞書』というものに載っているわけです。

『蓮如上人御一代記聞書』というのは、「真宗論語」と言われまして、自分の生活の中で教えをいただいていく上に、真宗の門徒の人達は、その教えをよくいただいて自分の生活の基本にして生きてまいりました。それで、私もそれをここで話させてもらっています。

はじめに、資料を作って頂きましたので、一緒に読んでみたいと思います。

 

第一五一条 一

()れば(いよいよ)かたく、(あお)げば(いよいよ)たかし」ということあり。(もの)()りて()(かた)きと()るなり、本願(ほんがん)(しん)じて殊勝(しゅしょう)なる(ほど)()るなり。信心(しんじん)おこりぬれば、とうとくありがたく、(よろこ)びも増長(ぞうじょう)あるなり。

 

この条文ですけれども、だいたいその浄土真宗の教えを聞いて連なるものは、これを何回も何回も、繰り返し繰り返し読んで、自分の生き方の参考というか、生き方の礎というか、生き方の基にして生きていかれたわけです。

そこで初めに、「鑚れば弥かたく、仰げば弥たかし」ということであります。

どうしてその言葉があるかというと、その言葉は、元々は「論語」というものにあるわけなのです。孔子の教えを集めたものに「論語」というものがあります。「論語」の子(かん)篇という場所にこういう言葉があります。

 

「論語」 子(かん)

 

それはどういうことかと言いますと、「顔淵、()(ぜん)として(たん)じて曰く、これを仰げば(いよいよ)高く、これを()れば(いよいよ)し」という所から始まって、顔淵は、孔子の弟子です。顔淵と孔子。孔子というのは、自分のお師匠さん。このお師匠さんを見る。その時に、このお師匠さんに近づいて見れば、いよいよそのお徳は高く、その志を叩いてみれば、本当に素晴らしい。

そこで顔淵は、あそこに孔子がおられるから、あそこに行こうと思って、自分の先生に近づいて行こうとしたら、もうその先生はそこにはいないで後ろの方におられる。それから、先生はあそこだと思って、またそこへ行けば、先生は高いところに居て、とても自分の及ぶところではない。そのように非常に、顔淵が孔子のことを感銘していた。

その言葉の中に、「鑚れば弥かたく」。「鑚れば」とはどういうことかと言うと、(きり)もみをする、ということです。下に堅い石とか、木を置いて、錐もみをしてみると、その石とか木が、見ただけでは、堅いとか柔らかいとかはわからない。ところが、錐もみをして、(もぐさ)を置いて、火を起こしてみれば、その木や石が、本当に堅いということがわかる。それと同じように、自分が孔子の、自分の先生のそばに寄ってみれば、いよいよ、その先生はとてもおよびのつかない先生であることがわかるのだと言っているのです。

私は、浄土真宗においても、そういう先生を持つということが、非常に大事だと思うのです。

この前、ここから推進委員になられて、本山に行かれた方の感想を読んでみますと、親鸞聖人を先生として、その教えを聞いていくということが、一番の基本だということが、その四人の人達が皆、言っておられる。

ところが、『歎異抄』を読んでみますと、「幸不依有縁知識者(さいわいにうえんのちしきによらずは)争得入易行一門哉(いかでかいぎょうのいちもんにいることをえんや)」ということがあります。(『真宗聖典』『歎異抄』『前序』六二六頁)

やはり、自分にぴたっと合う先生に出会うということが、浄土真宗においても非常に大事ではないかと思うのです。幸い、ここは光照寺という有縁の場所があるわけです。そこでそういう先生に出会われたら素晴らしいことだと思うのです。

そこで、私事になるのですが、私の先生は、細川先生です。

 

顔淵 ・・・ 孔子

 私  ・・・ 細川先生

細川先生と私は、あるところで出会って、その先生の話を今でも聞いているわけです。この先生は、今から十八年前に亡くなられたのです。だけれども、教えは残っている。私に色々なことを言われていたということがあるわけです。自分自身を考えてみて、この先生がいらっしゃらなかったら、私の一生はなかったなあとしみじみ思うのです。

私は日野という所に住んでいます。今朝早く家を出て、電車とバスを乗り継いで、ここまで来たのですけれども、丁度二時間半くらいかかったのではないかと思います。日曜日は電車の便が悪くて待ち時間が長いのです。その間に先生の教えをずっと考えていました。どういうことを考えてきたかと言いますと、関東で、善鸞という人が、自分のお父さんである親鸞聖人と違うことを説いて、関東の人達が善鸞の方へなびいていく。沢山の人が。そこで非常に信心が動揺するのです。その時に、それを鎮めるためにというか、関東の人達にお手紙を出されているのです。関東の人達に向かって親鸞聖人が。つまり、善鸞の説法によって、関東の教団が崩壊するのです。信心が動揺するのです。ぐらぐら真実信心が揺れるわけです。

その時にその手紙には、親鸞聖人は、それは困ったことだとは書かれていないのですね。「よき事にて候。」と書いてあるわけです。そのように動揺する信心というものは、非常にチャンスなのだと。それを機会に、真実信心の人になってほしいという手紙を、親鸞聖人は、関東の人に書かれるわけです。

私達の周りにも、実に色々と事件が起こるのです。例えば、ここで勤行をする時に、子供達がぎゃあぎゃあと泣く。そうすると、あれを鎮めないのかなあ、躾が悪いのではないかなあ、と心の中で思うでしょう。その時に、これは「よき事にて候」というふうに、全てのことを受け取って、念仏するということが、これが我々に与えられたことなのです。それは様々な悪いことが起こるわけです。私達にこれを越すことが出来るのだろうか。

私もここでさらけ出せば、「あんた、そういうことがあったのか、それは大変だったね。」と皆さん言われるでしょうが、言わないですよね。あまりにも大変なことが起こるのです。人には言えないものを皆、抱えているのです。その抱えていることが、全部よき事にて候。そういう世界に出れば、本当に真実信心はもう何ものにも遮られない生き方が出来るのです。その真実信心というものをいただくということが、我々の教えなのです。

私も日野から二時間半かかってやってきた間に、本当に実際「よき事にて候」という文章がどこにあるかなと思い、『聖典』を持ってこなかったので、ここに来て調べてみましたら、真浄御坊へのお手紙で、親鸞聖人がそう言われるのです。(『真宗聖典』「御消息集」五七七頁)そういうように、自分が十八年も前に亡くなられた先生が残していてくださる教えというものを、何回も何回も憶念し、推求し、反復して、ああ本当にそうだったなあと思う。そういう先生を持つ。そういう先生は、誠に「鑚れば弥かたく、仰げば弥たかし」という先生なのだと、そういう先生を具体的に持って、自分を打ち出して解決して、そして、この念仏の一道を歩み抜いてほしいということを思うわけです。

ところが、非常に面白いのです。後ろの方に書いてありますが、そこにはこういうふうに書いてあります。

 

(注)「論語」に「仰之弥高、鑽之弥堅」とある。鑚は、火打石へ火打金を当てて火を打つこと。論語の転用として「キレバ」は「きけば」。法を聞けば、信心堅く、広大殊勝な本願を仰信する、の意。

というふうに書いてあります。そこで、私たちがここで教えてもらう『聖典』には、「鑚れば」でなく、「聞けば」になっております。

 

1.()れば ・・・ 人

   聞けば ・・・ 法

 

これをどういうふうに考えればいいかということです。つまり、「鑚れば」というのは、その人を表している。法を聞いて、信心の人となったという人を表している。「聞けば」というのは、これは法を表している。法を聞けば、いよいよ堅く本願の教えが本当に凄いというように書いてある。『真宗聖典』ではこちらをとってある。

それはどういうことかと言えば、「鑚れば」という方をとっているのは、『和語真宗法要』という西本願寺本というのが底本になっています。「聞けば」の方は東本願寺本が底本になっております。そうすると、どっちがいいかということになります。私達が東本願寺だから、なにも西本願寺の『聖典』を持ってくる必要はない。西本願寺の話なんかするなということになるけれども、二つは同じことを言っているのです。それはどういうことかと言うと、法ということは何か。法というのは、必ず人の上に現われる。人の上に現われない法というものはないのです。

だから、「鯉のぼりの喩」でもあるように、風というものは見えない。でも、鯉のぼりは泳いでいる。風が法で、鯉のぼりが人なのです。そうすると、法は人の上に生きて、必ず人生の事実になるのです。法だけが一人で動くということはありえないのです。必ず人の上に法は生きる。だから、決して法だけあるということはない。私は南無阿弥陀仏だけを信じますということはありえない。南無阿弥陀仏は、必ず人の上に生きて、親鸞聖人となり、蓮如上人となり、その具体的な人の言葉となり、届いてくるのです。だから法を聞くということが大事なことなのです。法を聞けば、いよいよその法は素晴らしい。なぜかと言えば、その人は念仏に、南無阿弥陀仏に生かされた人だからです。

だから、西本願寺本は「鑚れば」、東本願寺本の我々の方は「聞けば」となっている。これはどうかと議論をして、わあわあ言ってこっちが正しい、あっちが正しいと、そんなことは全くする必要はない。両方正しいわけです。そういうわけで、法は人の上に生きるのだと。法だけが独り歩きをすることはありえない。必ず人を通して伝わる。

そうすると、自分のそばに有縁の知識を持つことは、非常に大事だということなのだと私は思うのです。つまり我々は、念仏は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とばっかり言って、人というものをあまり言わないのです。けれどそんなことはない。親鸞聖人がいらっしゃらなかったら成り立たないのだから。そうすると有縁の知識が意味あることなのです。

 

2.本願を信ずる

    教 ― 教典

    信 ― 信頼

    行 ― 実行

    証 ― 結果

 

次に、「本願を信ずる」という言葉があります。つまり、「物を鑚りて見て堅きと知るなり、本願を信じて殊勝なる程も知るなり。」本願を信ずるとは一体何なのか。この「信」ということは、非常に難しいのです。なぜ難しいかと言いますと、親鸞聖人の「信」というものと、一般の「信」というものが違うからです。一般の宗教の「信」、浄土真宗を聞いている初めの段階の「信」というのは、「教信行証」の「信」だと言われるのです。「教信行証」の「信」、これは一般の宗教の信です。浄土真宗を聞いても、初めの段階の「信」は「教信行証」の「信」なのです。

ところが、聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。」(『真宗聖典』『御文』八三七頁)と、先程も称えられましたが、その「信」とは一体何かということです。この「信」というのは、「教信行証」の「信」ではない。

「教信行証」の「信」は、まず、教典がある。そうして、教典を説く人、教典を信頼するわけです。なるほど、あの人は「聞法・勤行・念仏」と言った。あの人を信頼して、聞法・勤行・念仏をしようとなるわけです。そうすると、実行です。実行にはいろいろあるわけです。「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」というような実行もあるし、「聞法・勤行・念仏」というような実行がある。この人を信頼して、その先生の言葉を信頼して実行する。そうして「証」、結果を得ようとする。ところが、なかなか結果がついてこない。いくら聞いても、いくらやっても、どうもこの胸の苦しいのが無くなりません。それは「信」が問題なのです。

もう一つ、「教信行証」でなくて、親鸞聖人の「信」は、「教行信証」なのです。

 

教 ― 三部経

    行 ― 南無阿弥陀仏の(はたら)

    信 ― 二種深信

    証 ― 正定聚

 

この「信」は、どういう信なのか。それは、教えは『三部経』の教えがあり、「行」が一番難しい。「行」が本願の名号。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の(はたら)きなのです。南無阿弥陀仏の(はたら)きが届いて、「教行」至り届いて生まれる信を「信」と言われるわけです。本願を信ずる。本願の名号が届いて生まれる「信」。「教行」が至り届いて、「信証」を生じると言われる。その信は何かと言うと、それは「二種深信」。「二種深信」という信なのです。「二種深信」とは、どういう信かと言うと、私がなんであるかがわかる。私が地獄行きの私であるということがわかる。そして、それを救ってくださるのは、南無阿弥陀仏一つということがわかるということが、「信」なのです。

言うのは易しいけれども、これがなかなか難しい。だから、「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。」と何十回言っても、信にならないのです。そういう信。その信ということが大事なのです。そうして、「証」というのは、この「証」は「信」と離れない。信と証は離れない。そして、そこに本当に正定聚という人が生まれる。「入正定聚之数とも釈し」と書いてありますね。正定聚不退の人が生まれてくる。そして、ついに大般涅槃を超証するというような信になるわけです。

 

そこで法然と親鸞という人を考えてみましょう。

 

法然  親鸞    ただ念仏

 

親鸞聖人はどうして生まれたのか。それははっきりしているのです。法然上人がいらっしゃったからです。そこで、法然上人が何と言われたのか。

それは、関東からはるばる、信心が動揺していったいどういうことでしょう、と言って、京都まで訪ねて来た、その十余か国のさかいをこえてやって来た。親鸞聖人はその人達に何と言われたか。

ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし。」と言われた。「ただ念仏」と言われたのです。法然上人はただ念仏。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」。法然上人はそう言われた。

だから、浄土真宗の教えとは何か。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし。」ということなのです。浄土真宗の教えは、念仏一つということです。

それに対して、親鸞は何と言われたのかと言うと、「よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」私は、法然の教えを聞いて、信ずるほか何もありません。法然上人の仰る通りでございます、と言ったのです。そう言えるかどうかが、問題なのです。私達がそう言えるかどうかです。(『真宗聖典』『歎異抄』六二五頁)

では、法然上人はどういう人であったのか。「十悪の法然房」、「愚痴の法然房」であると。私は、正定聚不退の位についてピカピカ光っているというようなことではないのです。私は十悪の法然房、愚痴の法然房である、と言われた。「(かしこ)まりたる」と頭を下げて、その通りです、と言った親鸞聖人はどうかといったら、親鸞聖人は、「いずれの行もおよびがたき身」、あるいは、「地獄は一定すみかぞかし」と言われたのです。ただ念仏というのは、地獄は一定すみかぞかし、いずれの行もおよびがたき身と一体のものなのです。ここのところが非常に難しい。私は万歳、信心決定して、念仏申している、正定聚不退の位、胸を張って堂々、というようなものではなくて、いずれの行もおよびがたき身、地獄は一定すみかぞかし、と言って、深い自覚をともなった念仏だったのです。

そこのところを私が思うには、私の母が私に対して、何回も何回も言って耳の底に留まっている言葉は何だっただろうか。母が何と言って死んだかなあと。私の母は九六歳で死にましたが、その母が何て言ったか。一つだけしか言わなかった。それはどういうことかと言うと、「私は鬼じゃ。この鬼を救ってくださるのは親様だけだと本当にわかった人は、世界一の智慧者である。」と言って死にました。これは夜晃先生の言葉ですが、本当にそれを自分の身にいただいて、そのことがありがたい、頷けると言って亡くなりました。これは母の遺言だなと思っております。

次に、

 

3.本願を信じて殊勝なる程も知るなり

 

「本願を信じて殊勝なる程も知るなり。」この信が一番難しい。本当に本願を信ずる身になる。そうしたら本当に本願はことのほか優れている、素晴らしいものだということが、いよいよ身に沁みてわかるのだと。

つまり、こういう『和讃』があります。『正像末和讃』の前に、

 

五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり 

(『真宗聖典』『高僧和讃』五○○頁)

功徳というのは、智慧と慈悲です。功徳は、お念仏を称える人の身にみてる、という親鸞聖人の『和讃』です。

そこで親鸞聖人は、『信巻』に、「現生十種の益」(『真宗聖典』『教行信証』二四〇頁)というのを挙げられている。現実人生に本当に信証をいただいたものは、現実人生に正定聚の益を与えられるのだ。その益は全部で十あるのだと言われた。その私達が信心決定して念仏申す身になってみたら、この現実人生に利益が与えられる。その利益は何か。

 

1.護られる

 

一つは、護られる。細川先生が現生十種の益を三つに整理された。私たちは本当に護られるのだ。目に見えぬ神々、小さな命に仏は宿る、と先程歌を歌いましたが、すべてのものに仏が宿って、私たちは護られている。

諸仏護念といって、よき師、よき友、諸仏に護られている。それはそうでしょう。私のような八三歳にもなって、やっと生きているようなものがここに出てきて、この素晴らしい施設の中で、第十四回護持会総会でお話ができるのも、よき師、よき友に護られているということしかないのです。本当に護られる。御名の摂取の光の中で護られている。そうして、徳を与えられる。

 

2.徳を与えられる  転悪成善

 

それは、至徳具足の益といって、南無阿弥陀仏の大功徳。それが至徳なのです。それは智慧と慈悲。そういうものを不可思議にも与えられる。どんな悪いことが起こっても、それが全部、善にかえなさせる。転悪成善。

私は身に沁みて、転悪成善ということを思うのです。転悪成善というのは、どんな悪いことが起こっても、全く心配が要らない。悪を転じて善を成す。それはどういうことかと言うと、念仏になるということです。だから全く心配はいらない。全く心配はいらないと言って、細川先生は死んでいかれた。全く心配はいらない。私は忘れられない。全く心配はいらないと、死んでいける身になりたいものです。どのような悪も転じて善に成る。そうして諸仏称讃。よき師、よき友のお眼鏡に叶う生き方が出来る。そうして、仕事を与えられる。

 

3.仕事を与えられる  常行大悲

 

 それが正定聚なのです。やることがある。推進委員が四人出られて良かった。これはどういうことかと言うと、仕事を与えられるのです。どういう仕事か。それは、知恩報徳。恩を知って、徳を報ずる。そして、常行大悲。常に大悲を行ずる。大悲とは、お念仏を勧める人になるということです。私達はお念仏を勧める人となる。それが仕事なのです。

私は、日野のいずみ会館の管理人をしていて、いずみ会館での行事を主催しているのです。昨日は子供会をしました。二十五人集まりました。もちろん大人も一緒ですよ。子供が十一人。近所の子供も小学生が四人来て遊んでいるのを見た。喜んでジャガイモ掘りをした。そうして、おやつをあげたり、ものをあげたりしたら、非常に喜びました。その人達が来ることが私の喜びになります。

私は、いずみ会館の傍にいるのですが、間もなくしたら、この会館の前は、「いずみ会館通り」になるのではないかと。そして又、ここのお寺の前は、「光照寺通り」というようになったらいいなあと思います。

それが、仕事を与えられること。自分の住んでいる所が、そういうふうになることが非常に大事なのです。私達はそういう身にならせてもらう。

そこで、昨日はどういう人がそれをやったかと言うと、 四十歳代の女性です。その講師は、何とアンパンマンマーチのCDをかけて始めるのですね。ぱっとかけて始めると、子供達に知っているか?と聞くと、それはアンパンマンマーチです、と。小学校一年生です。

我々がここをそういう形に変える必要はないけれども、身近な人達と一緒に、近所の子供達も来て、喜んで、本当によかったなあと、このサンガがなることが大事です。

そうして今度、二泊三日で八月に錬成会をするので、私の孫の大学二年生が出てきて、皆さんに、「みんな、八月には来てくれるかな?」と言ったら、皆が「はーい。」と言って、「良かった、良かった。」と、大学二年生がそういうふうに言うわけです。そういうふうに、子供、大学生、若い人が盛り上がるのを見て、私はいつ死んでもいいなあと思いました。良かったと思いました。

光照寺の話も、いつ辞めてもいいなあ、とそういうふうに思います。八十三歳、歳を取っていつどうなるかわからないのです。寝ている時に考えることは、どうしてこんなに早く八時半に行かなくてはならないのか。なんとなく身体の調子も悪いですよ。タクシーで送り迎えでもしてくれないのかなあと、色々なことを寝ていて考えます。

考えることは、愚痴と本当にわが身可愛いや、自己中心のことばかり考えるのです。何とか自分を楽にすることしか考えない。自分が行き着く先は、地獄行き間違いないのです。こういう身が、こういう仕事を与えられる。お念仏を勧める仕事を与えられる。これは素晴らしい仕事だと思っているわけです。

お話を聞いて頂いて、ありがとうございました。これで終わります。















テキスト ボックス: 法然 ・・・ 親鸞
「ただ念仏」

3.本願を信じて殊勝なる程も知るなり
  1.護られる
  2.徳を与えられる
     転悪成善
  3.仕事を与えられる
     常行大悲



 本冊子は平成二十五年六月三十日、第十四回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。

()れば(いよいよ)かたく、(あお)げば(いよいよ)たかし」というテーマでお話を頂戴しました。今回も『蓮如上人御一代記聞書』のお言葉をテーマにお話いただきました。元々は論語からくる言葉で、東本願寺の『聖典』は「鑽れば」が「聞けば」となっているというご指摘を頂きました。

先生は本書にて、『「教信行証」の「信」は、まず、教典がある。そうして、教典を説く人、教典を信頼するわけです。なるほど、あの人は「聞法・勤行・念仏」と言った。あの人を信頼して、聞法・勤行・念仏をしようとなるわけです。そうすると、実行です。実行にはいろいろあるわけです。「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」というような実行もあるし、「聞法・勤行・念仏」というような実行がある。この人を信頼して、その先生の言葉を信頼して実行する。そうして「証」、結果を得ようとする。ところが、なかなか結果がついてこない。いくら聞いても、いくらやっても、どうもこの胸の苦しいのが無くなりません。それは「信」が問題なのです。』また、『私がなんであるかがわかる。私が地獄行きの私であるということがわかる。そして、それを救ってくださるのは、南無阿弥陀仏一つということがわかるということが、「信」なのです。』とお話されました。南無阿弥陀仏ひとつがわかる聞き方をしているか、求道の歩みそのままに「信」が問われると頂きました。この「信」は「他力の信」で「教行信証」の「信」です。

 先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

 又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、護持会役員の淡海雅子様、校正を手伝ってくれた伊東良英氏には多大な感謝を申し上げます。合掌

 

平成二十六年六月二十九日

    第十五回護持会総会にあたり   光照寺副住職 池田孝三郎