第15回  護持会総会法話 14.6.29 講師;佐々木玄吾先生(元豊平道場主、いずみ会館館主)
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(資料)

 『蓮如上人御一代記聞書』(『真宗聖典』九〇一頁)

  第二四七条

  一.「「愚者(ぐしゃ)三人に智者(ちしゃ)一人」とて、何事も談合(だんごう)すれば、面白(おもしろ)きことあるぞ」と、前々住上人(しょうにん)

    前住上人(しょうにん)へ御申し候う。(これ)また、仏法の(かた)には、いよいよ肝要(かんよう)御金言(ごきんげん)なりと云々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(版書)

 

 

「愚者三人に智者一人」

仏法を興す人

一.讃嘆談合

二.讃嘆の七徳

三.讃嘆談合の根本

@   愚者の意識

A   御同朋御同行のこころ

B   継続一貫 積極性

四.求道心を失わせるもの

@   教法に対して恭敬供養讃嘆の心をなくす

A   驕慢心

B   約束を守らなくなる 妄語不実

C   よき師よき友に対する尊敬の念を失う

五.仏法を興す人

@   仏法は聴聞に極まる

A   仏法は讃嘆談合に極まる  

 

 

おはようございます。只今紹介にありました佐々木です。今日の講題は「愚者三人に智者一人」という講題です。

 

「愚者三人に智者一人」

 

愚者とは愚かな者です。智者とは智慧のある人。それはそこにある『蓮如上人御一代記聞書』の言葉をとったわけです。それでこういう講題にしたわけです。そこで資料がありますのでそれを読んでいきたいと思います。それでは愚者三人の所から皆で一緒に。

 

 一.「「愚者(ぐしゃ)三人に智者(ちしゃ)一人」とて、何事も談合(だんごう)すれば、面白(おもしろ)きことあるぞ」と、前々住上人(しょうにん)

    前住上人(しょうにん)へ御申し候う。(これ)また、仏法の(かた)には、いよいよ肝要(かんよう)御金言(ごきんげん)なりと云々

 

これは蓮如上人の御一代記聞書の第二四七条の言葉です。それの一番初めの言葉なのです。そして「愚者三人に智者一人」という講題を出しましたら、愚者三人と智者一人とはどういう意味なのかと色々講題について耳に入って、なにやらわからないと。

それで私も宮原の駅に降りて考えました。この講題はちょっと良くなかったかなあと。それで今朝降りて考えたところ、これはこういう講題にしておけば良かったかなあと。

 

「仏法を興す人」

 

 仏法を興す人という講題にしておけば良かったかなあと。どうしてかと言いますと、結局仏法をお念仏の教えとしますと、それを本当に興隆させる、興(コウ)という字は神輿を皆で担ぎあげるという字です。そうするとそういうふうに仏法を興す人というのはどういう人かというと、それは愚かな者でないと仏法を興すことはできない。智者は一人で、自分で考えるから、なかなか仏法というものが智者のいるところでは盛んにならない。ところが光照寺に今日はずいぶんたくさんの人がおられ、なんかそういう感じで光照寺の事かなあと思って考えたところなのです。本当に皆さんで助け合って興隆させていくというものは愚者でなければできないのだということなのです。智者はそんなところに行かなくても私一人で分かっているという。しかしこの文句はどういうことかというと、三人寄れば文殊の知恵ということが昔からありまして、集まって談合するということはそこに非常に面白いことが出来る。「前々住上人(しょうにん)」とはどういう人かというと蓮如上人のことを前々住上人(しょうにん)と云われ、「前住上人(しょうにん)」というのは蓮如上人の子供。実如というのは前住上人(しょうにん)として、今はその次の代。だから蓮如上人が第八代、実如がその子供で第九代。今の上人は証如という人で第十代です。特に蓮如上人がそういうふうに言われた。それは仏法の方では大切な教えである。何事も讃嘆談合すれば集まって話し合いをすれば、話し合うとは仏法のことを讃嘆談合すれば非常に面白く良いことがあると。そういう教えなのです。

 

一、讃嘆談合

 

 讃嘆ということは 褒め讃えるということですね。談合ということは話し合うことです。褒め讃え話し合うこと、そういうことは大事なのだという事。蓮如上人の時代はそういうことが盛んだったのです。だから御文章の四帖目第十二通にはこういう言葉があります。往古よりいまにいたるまでも、毎月の寄合ということは、いずくにもこれあり」(『真宗聖典』『御文』八二九頁)。蓮如上人の時代には月に二度くらいは寄り集まって讃嘆することが沢山あった。そういうのを講と云います。そういう組織が各地に作られました。そういう集まりで何をしたかと言いますと不信の面々(まだ信心に至らない人たち)はその自分の出来ていないところを申し立てて話をする。私はそのことが良くわかりませんと言ってそのことを聞く。そして又信心決定の人もあい互いに信心の沙汰あらばこれすなわち真宗繁盛の根源なり。讃嘆談合することが真宗繁盛の根源なりと蓮如上人は言われた。それが講という、真宗繁盛の根源。

真宗繁盛の根源、光照寺繁盛の根源とは何かというと讃嘆談合というところに極まるのだということなのです。現在でも住岡夜晃先生は讃嘆会を盛んにしてほしいと、もう自分が立てなくなって一番最後にそのように言われました。そして念仏の家庭を成就してほしいと言って亡くなっていかれましたが、本当に現在においても大事なことですね。そこで私の家でも讃嘆会を年に一度やっております。その時にはいつも聞法している人に一緒に集まってもらって、そこで私は四月が当番でもう済みました、光照寺さんが作られました花岡要さんの遺稿集を皆に渡してそれを皆で読みあって、そうして花岡さんの遺徳を讃える、花岡さんは本当に目立たないが縁の下の力持ちだったなあと。あのいずみ会館の草をとってくださったなあと皆で話し合って仏法を喜び、人を讃嘆する。そうしたら私の近所の人が讃嘆会にこられまして、丁度その日に咲いた牡丹の赤い花を持ってきてこれを飾ってくださいと。皆がほんとに綺麗な牡丹の花だと喜びました。そのように讃嘆会を自分の家でするということは、蓮如上人の時代にはその人が仏法を興す人だと蓮如上人も言われています。そこで私は皆さんに光照寺でも自宅を開放して皆さんの親しい人を呼んで、そうして自宅で讃嘆会をやって欲しいと思って今日この講題を選んだ訳です。こういうことを私が言うことは僭越至極で、そういう資格はありませんが本当にそういうことが光照寺でもできたらなあと私は思って、それこそ真宗繁盛の根源だというように思っているところです。

 

二、讃嘆の七徳

 

 そういう讃嘆談合をすれば七つの徳があるというふうに昔から言われております。それはどういう徳かと言いますと、一つは聴聞の誤りを正す。教えを聞いて、皆、いい話を聞いたと言うけれど、集まって聞いてみると六人寄って讃嘆したら四人は違っていたということで、話し合ってみないと間違って聞くということがあるのですね。だから今日私の話はいい話ではありませんが 聞いたとしますね。そうするとあの人の言っていることはこうだった、良かったというけれども、六人寄ればそのうち四人は違い候とそういうことです。聴聞の誤りを正す。そういうことが一つ。次に未聞の法を聞く。まだ聞いたことのない話を讃嘆会で聞く。まだ聞いたことのない教えを聞くことが出来る。そして三番目に明了堅固になる。いよいよ自分の考えていることがはっきりしてきてこの道を行けばいいのだと、そういうことがはっきりしてくる。そして四番目にお互いの心中を知る。お互いの胸の中をこういう問題があるのだということをそこのところに行けばはっきりしてきます。五番目に報謝の情を増す。報謝の情とは報恩謝徳、どうしても御恩に報いたい。そういう気持ちが興ってくる。讃嘆会によってですね。良かった、わかった、本当によかった、ということがわかると、これは如来の御恩だと。善知識のおかげなのだと。そうして仏様のおかげなのだと。先生のおかげでそういうことが分かったのだというように自分の事ではなくお返しするところを持つ。そうしてそこに出て行けば、六番目に懈怠のあらたまる縁となる。自分が怠けてもう止めようか休もうかというそういう思いが頑張ろうという気持ちに変わってくる。それが讃嘆の徳なのだと。いよいよ私はやらなくてはならないのだ、精進しなくてはならないのだということが讃嘆の徳なのだと。最後に教人信になる。教人信とは自信教人信ということばがあって自らも信じて人を教えて信じせしめるということが本当の仏恩報謝なのだということが教人信。仏法の讃嘆が少しでもできて人に喜んでもらうことがあれば、それこそが仏恩の報謝なのだ。本当に有り難いことなのだ。これが仏恩報謝の最上のものであるといわれるのです。

 

三、讃嘆談合の根本

 

讃嘆談合の根本。それを支える根本。それはいったい何なのかを考えてみますと、それは愚者三人というところに根源がある。つまり愚者になることに鍵がある。そこで愚者の意識というのが大事なのです。

 

@愚者の意識

自分は智者であろうか愚者であろうかということです。親鸞聖人のお手紙が『末燈鈔』というところにあります。「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」(『真宗聖典』『末燈鈔』六〇三頁)と法然上人が言われたと書いてある。浄土宗のひとは愚者になりて往生すると。浄土真宗、浄土宗のひとは愚者になりて往生するという言葉が親鸞聖人のお手紙『末燈鈔』にある。どういうふうに書いてあるかというと、

故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。『真宗聖典』『末燈鈔』六〇三頁)

法然上人はそういうふうににっこり笑われた。

ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。『真宗聖典』『末燈鈔』六〇三頁)

という言葉が『末燈鈔』にある。ふみざたして賢そうに色々なことを言っている人が参ったらこの人は大丈夫かなあと言われたと。指導者意識がすたり教育を受ける者、被教育者に徹した人、つまり私は教育を受ける者だ、指導していく人ではなく受けさせていただく。私は聞く人なのだ。説く人ではなく聞く人なのだ。それが真の念仏者なのです。本当の讃嘆談合は愚者でなければできない。学者、先達、卒業生めいた人やお偉方では自己顕示に忙しくて讃嘆談合も独演会になってしまう。人に言って聞かせる意識が讃嘆談合を自己主張の座にする。讃嘆談合は愚者の意識が一番大事なのである。

 

A御同朋御同行のこころ

 

御同朋御同行これが讃嘆談合の根本。切っても切れない関係。そして同じ道を歩む御同朋御同行、そのこころが讃嘆談合の根本なのです。親鸞聖人という人はやはり御同朋御同行と言ってかしずかれたのです。共に如来の本願を聞いていく友なのだ。そういうふうにしてかしずいていかれた。本当にそういうこのことを思う。私は豊平という所で一五年ほど過ごしましたけれど毎月細川先生のいらっしゃる厳松会館に土曜会というのがあって 近いから毎月お伺いしました。そうすると先生から手紙が来ます。葉書が。どういってくるかと言うと、お二人とも本当に土曜会にお参りくださいましてありがとうございましたと、先生から礼状が来るのを見てびっくりして、私は聞かせてもらって本当にそれによって元気をいただいていくのに先生の方が御同朋御同行と言って褒めてくださる。そして来ていただいてありがたいというお葉書を頂いて、すこしでも真似をさせていただかなくてはと思っているのです。この前、私の所に傍のいずみ会館を会場にして讃嘆会をやられた人があるのですね。私はいずみ会館の管理人です。 

(住職;いずみ会館館主に訂正してください。管理人と言うと誤解がありますので。会座を担うということは謙虚なもので、えばるわけではありませんが、管理人ではありませんのでご訂正を。)

そういうわけで、人は他所から来てその会館を借りて主催されるのですが、それを待っていて机を並べきれいにしていたら、良くやってくださる、仏法興隆の為に良くやってくださると、私に良くやってくださりありがとうございましたと礼を言われました。やっぱり御同朋御同行のこころは非常に大事なのです。それが愚者の心なのです。そうして、

B   継続一貫 積極性

 

継続一貫、続けるということがないと何事も仏法興隆などということはできません。そして積極性。積極性というのは私は非常に大事だと思います。つまりこういう所でお話を聞くことは楽なのです。比較的に。何もかも用意してあるから。私も会長とか言っても何もしないのです。ただ座って「次は」「はい」と言って会計報告をしてくださいと。やる人はいるので非常に簡単ですね。やってくださいと言って、「皆さんそれでいいですか」と言ったら「いいです、いいです」と言ってパチパチと手を叩いて終わりということで、物凄い苦労の積み上げの中に凝縮してそこに提示されているのですけれど、私自身は比較的楽にやらせて頂いている。

(住職; ちょっと訂正させていただきたいのですが 会長と議長が同時になってお話になっておりますが、 会長は会長ですが、担われて議長になっているように展開するのですが)

まあまあそういうわけで。他所に行って聞くことは比較的簡単なのですよ。ところが自分の家で人を呼んでするということになってみなさい。さあ人が来るからと言って、足の悪い人が来るなあといえば椅子も用意しないといけないでしょう。お茶碗や座布団もトイレも綺麗にしないといけない。それから色々なことをしなくてはいけない。というように積極性というものがないと仏法というものは身に付かないのです。だからそういう意味で自分の家でやってみられたら仏法興隆になるのではないかと思うのです。積極性。またこういう所に来られても人の話を聞いてあの人はあんなことを言った、恥ずかしくもなくよくあんなことを言うなあと、人のことは言えるのですが 自分が発言してみなくてはいけないです。今日の総会でもしっかり発言してもらわないと積極性にならない。そういうことが讃嘆談合の大事な点なのです。

その次に、

 

四、求道心を失わせるもの

 

求道心を失わせるもの。これが一番命取りだと私は思うのです。私は八四歳ですから言い訳ができるのですね。歳を取っている。腰が痛い。今日はあの人は欠席した。無理はなかろうな。この頃医者に通ったりいろいろするから、と許されるわけです。聞法の場に出なくても歳を取っている人は危険なんですね。なんでかと言うと、皆からちやほやされるから。何かやらなくても、無理はない無理はないと言われるのです。

私の一緒に聞法している人たちも歳を取ったら止めるという人が多いのですよね。聞いてみると何か神経痛だとか、腸がどうとか、なんとかかんとか言って病気だとか足が悪いとかいう理由がある。ところが求道心を失わせるものとはそういう外からのものよりも内面的危機の方が多いのですよね。本当に。内面というものを考えてみることが大事なのです。たとえ寝ていても内面に燃える求道の心があれば非常に元気が出るのですけれど、内面から崩れていくのですよね。心の中から。そこで、どういうものが求道心を失わせるのかということを考えてみよう。

 

@教法に対して恭敬供養讃嘆の心をなくす

 

本当に頭を下げて敬う、そうして本当に自分の身をささげて聴く。供養。そして本当に良かったと褒める。求道心を失うとは讃嘆の心が無くなること、無くすことなのです。もう聞いた話だ、何回聞いても同じ話だというように。歳を取って何回も聞くとあの話は本山で聞いた、埼玉組で聞いた、あの話はだれかが言ったというような、いつ行っても同じようなことだと。それは敬いの心、それを本当に押し戴く心、褒めたたえる心、心がなくなるのです。それが非常に怖い。いつの間にか姿を消すわけです。

 

A驕慢心

 

 驕慢心というのは高上り。自分は良くわかっていると、住職はまだ若いと、そういうような高上りした心があると本当にいつの間にか、今日は止めておこうという心になるわけです。驕慢な心。そうして妄語不実といってうそを言う。約束を守らなくなる。

 

B約束を守らなくなる 妄語不実

 

 約束を守らない。今日は八時半に集合しなさいという。そうすると本当に仏法を押し戴く人は八時半と言えば八時半に来るわけです。私は日野から二時間、六時に今日は出てきて、ここに入ったら丁度八時一五分。ここに入ったら誰も人がいない。それはどうでもいいのですが、要するに決めたことは守るということが非常に大事なのです。今度の聞法会はありがたいです、必ず来ますと言う。ところが必ず用事が出てくるのですね。言ったけれどものっぴきならない用事でどうしてもということで、約束を守らないことになるのです。そうすると求道心を失わせるのです。そして四番目。

 

Cよき師よき友に対する尊敬の念を失う

 

よき師よき友に対する尊敬の念を失う。その心が出てくるのが非常に怖い。本当によき師よき友に対する尊敬の念を失うという、それが怖いのです。私はだれを一番尊敬していると思いますか。私の妻を尊敬しているのです。

この人が一番仏法を支えているのですね。もし、館主という名前を付けるならば私の妻の方が館主ですね。私は本当に役に立たない。昨日も私のところで子供会をしました。そうしたら子供が九人で大人が十一人。全部で二十人来て、雨が降っているのにジャガイモを掘って、ふかして皆で美味しい美味しいといって食べた。子供たちはドタバタして大騒ぎ。こうして次なる子供たちが育っていく。だけど、ほとんど私は何もしませんでしたね。本当に尊敬。自分の奥さんを尊敬し、自分の子供を尊敬し、自分の孫を尊敬するということが非常に大事なのですね。身近な人というか自分を本当に支えてくれるのはそういう人なのですね。   

今日もここでずうっと勤行を一族でされました。兄弟そういう人達が皆集まって支えていく。これを心から尊敬することが出来る。そういうことが求道心なのです。そういうものが失われてくると、大勢いるけれども、ろくな奴はいない、と言い出したらもうそれは仏法を聞かなくなる。考えてみますとこの讃嘆談合の根本と求道心を失わせるものとは非常に関係があるのです。つまり教法に対して供養讃嘆の心を無くすということは愚者という意識がないということです。私は偉い、となるとその心は関連がある。そうして驕慢な心というものと御同朋御同行の心というものは非常に関係がある。驕慢な心を持つと御同朋御同行と思う心は失われていくのですね。自分の方が偉いということになると御同朋御同行と言って尊敬しなくなる。そうして約束を守らなくなることは、継続一貫、積極性を失ってくる。善き師、善き友に対する尊敬の念を失うことはやっぱり愚者という意識を失っているのですね。だから本当にいつの間にか退転する。求道心を失ってそれが続かなくなることは讃嘆談合の根本と密接な関係であるということです。

 

五、仏法を興す人

 

仏法を興す人に我々は本当になりたいものです。その人がその土地へ行った。その方の土地にお念仏が興ってくるというような人になりたいものです。蓮如上人はそういう人でした。第八代、浄土真宗再興、再び浄土真宗を興した人だといわれている。その蓮如上人は二つのことを言われたのです。どういうことを言われたかというと、一つは仏法は聴聞に極まると言われた。

 

@仏法は聴聞に極まる

 

聴聞とは聴く、聴くに極まるといわれた。教えを聴くに極まるのだと蓮如上人は言われた。仏法は教えを聴くということに極まるのだと。

 「いたりてかたきは、石なり。至りてやわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ。「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々」(『真宗聖典』『蓮如上人御一代記聞書』八八九頁)

と、蓮如上人は言われた。仏法は、聴聞にきわまることなりと言われた。仏法は、聴聞にきわまる。しかし、もう一つ蓮如上人は言われた。

 

A仏法は讃嘆談合に極まる  

 

仏法は讃嘆談合に極まると二つ言われた。極まるが二つあっては可笑しいのですね。このことが一番大事だと二つ言った。蓮如上人がその二つのことで浄土真宗を再興された。二つはどう関係があるかということですね。仏法は、聴聞にきわまる。聴くということ。本当に聴いて聴いて聴いて尽くして本当に聴いて聴いていって何になるのかというと、聞きつくした先は諸有衆生となる。お粗末な迷い深い申し訳ない私ですというのが聴聞の極まり。

聴聞というのは聞法・勤行・念仏ということです。聞法・勤行・念仏の極まりは何になるかといいますとそれはついに迷い深い私に目覚めて念仏する身になるというのが聴聞なのです。仏法は讃嘆談合に極まる。それはどういうことか。それは聴聞に極まるのですけれども、しかし讃嘆談合という時には必ず御同朋御同行という善き友がいるのです。仏法というのは善き師・善き友というか御同朋御同行というものがなければ興隆はできないのです。聴聞に極まるとは要するに縦糸をいただく。仏法は聴聞に極まるということは織物で言えば縦糸をいただく。織物は縦糸だけではできていないですね。縦糸とはなにか。聴聞に極まるという縦糸はついに信心念仏になる。聴聞の極りは、信心念仏。念仏一つ。「信心を本とせられ候」。聴聞の極まりは縦糸となる。縦糸だけでは織物にならない。それに横糸が入る。横糸が入って初めて織物が出来る。私という織物。私という織物は縦糸をいただき横糸をいただかないと私という織物はできない。縦糸は何かというと聴聞の極り。南無阿弥陀仏と念仏する。諸有衆生とはお粗末な本当に愚者悪人の私というのが信心。その縦糸をいただくとその時、次はそれが自分の所だけに留まらないで皆さん一緒に聴きましょうというように、善き師・善き友を横糸にして御同朋御同行を得て、そうして私という織物が出来るのです。その人はどういう人かと言うとその人が仏法を興す人なのです。そこで私が言うのは、お客さんで聴くのも大事なことなのですが、喉が渇きましたかとお茶をだされ、朝早かったらおむすびを出されまだ朝ご飯がすんでいないでしょうと言って坊守さんが、そのようにやって下さっているのです。それをいい気になってお寺はそれくらいやって当たり前だと思ってパクパク食っているようでは。それを自分でやってみなさいと言っているのです。自分の家で善き師・善き友を招待して讃嘆会をやって皆さん一緒に聴きましょうと出来たら、それが仏法を興す人、蓮如上人の精神に触れる人と思いました。実は私はこれから先が短い。八四歳ですから。先が短いですからいよいよ頑張らせてもらわないといけないと思って、いよいよトイレの掃除をし、床を拭いて、良くお帰り下さいましたとこういうふうに言える人になりたい。この人こそが仏法を興す。愚者三人。一人ではダメですね。三人ということが大事なのです。私のところで田中さんと私と妻の三人で読書会をしています。現代の讃嘆会というのは読書会という形がいいのではないかと思って、今、五年位続けているのです。そこへ是非入れてくれと言う人が来られました。何日か来られました。そうしたら私も入りたいと言う人がありまして、だんだん讃嘆会から仏法が興っていくのです。これで私の話を終わりたいと思います。

 

 本冊子は平成二十六年六月二十九日、第十五回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。

愚者三人に智者一人」というテーマでお話を頂戴しました。今回も『蓮如上人御一代記聞書』のお言葉をテーマにお話いただきました。

先生は本書にて、『仏法は聴聞に極まるということは織物で言えば縦糸をいただく。織物は縦糸だけではできていないですね。聴聞に極まるという縦糸はついに信心念仏になる。聴聞の極りは、信心念仏。念仏一つ。「信心を本とせられ候」。縦糸だけでは織物にならない。それに横糸が入る。横糸が入って初めて織物が出来る。私という織物。私という織物は縦糸をいただき横糸をいただかないと私という織物はできない。諸有衆生とはお粗末な本当に愚者悪人の私というのが信心。その縦糸をいただくとその時、次はそれが自分の所だけに留まらないで皆さん一緒に聴きましょうというように、善き師・善き友を横糸にして御同朋御同行を得て、そうして私という織物が出来るのです。その人はどういう人かと言うとその人が仏法を興す人なのです。』とお話されました。私という織物がしっかりと形成されるように聴聞していきたいと感じました。

 先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

 又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、護持会役員の淡海雅子様、校正を手伝ってくれた池津徳彦氏には多大な感謝を申し上げます。合掌

 

平成二十七年六月二十一日

    第十六回護持会総会にあたり   光照寺副住職 池田孝三郎