第18回  護持会総会法話 17.6.10 講師;佐々木玄吾先生(いずみ会館館主)
法話音声MP3

(資料)

『蓮如上人御一代記聞書』(『真宗聖典』八八九頁)

第一九三条

一. いたりてかたきは、石なり。至りてやわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ。「心源(しんげん)、もし(てっ)しなば、菩提(ぼだい)の覚道、何事か(じょう)ぜざらん」といえる古き(ことば)あり。いかに不信なりとも、聴聞(ちょうもん)を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。ただ、仏法は、聴聞(ちょうもん)にきわまることなりと云々

 

 

 

 

 

 

 

 

(板書) 

@ 水、よく石をうがつ。

「継続は力なり」

A 何事か成ぜざらん。

B いかに不信なりとも 

自己が分からない  

   鏡 → 教法

C いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり

D ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり

  諸有衆生聞其名号  信心歓喜

 

 

 

 

 おはようございます。光照寺は聞法が第一のお寺であります。その聞法が第一ということは何事よりもこのことが大事であると。それはなぜ大事かというと聞法によってのみ信心の人を生み出すからです。信心の人とはどんな人かと言いますと非常に頼りになる、頼もしい人であると蓮如上人は言われております。今日も先ほど皆様で「聖人、一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候」という信心というものが大切なのだということを『御文』で一緒に拝読しました。仏法というのは信心の人を生み出すという。先ほど皆さんで仏教讃歌を唄いました「光はみちて」という歌ですが、光はみちてというのには、最後に三番ともに「信心のまことに生きんわれら」ということで結ばれております。だから信心ということが非常に大事だと。信心というのはただ聴聞をする、聞法するということによってのみ信心が得られる。だからこのお寺では「聞法しなさい。聞法しなさい。」といって非常に聞法を大事にしており、何回も色々な聞法の案内が来るわけです。私たちは住職、光照寺の皆さんのお誘いによって、聞法会に出席するわけですけれども、今日も総会という事務的な会でありながら私に四十分も時間をいただいてお話をせよという事でありまして、それでやらせて頂いているわけであります。私の話は私の先生であります細川先生という方がおられまして、そのご指南によってお話を聞かせて頂いたお話を話しているわけです。

今日の講題は「ただ仏法は聴聞にきわまることなり」そういうお話です。その話に該当するのがここに書いてある『蓮如上人御一代記聞書』の第一九三条にそういう言葉があります。そこで一緒に読んで見ましょう。

 

一. いたりてかたきは、石なり。至りてやわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ。「心源(しんげん)、もし(てっ)しなば、菩提(ぼだい)の覚道、何事か(じょう)ぜざらん」といえる古き(ことば)あり。いかに不信なりとも、聴聞(ちょうもん)を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。ただ、仏法は、聴聞(ちょうもん)にきわまることなりと云々。『蓮如上人御一代記聞書』(『真宗聖典』八八九頁)

 

こういう言葉は五〇〇年前の蓮如上人の言葉ですけれども非常に今に生きる言葉でしてこれを覚えておくと励まされると言いますか元気が出るといいますかそういう言葉です。内容は非常に簡単な言葉です。まず、

 

 

@ 水、よく石をうがつ。

「継続は力なり」

 

「水、よく石をうがつ。」ということは水が一滴一滴落ちてきてもそれの雨だれが何年、何十年も経っていくと堅い石にも穴が開くという、そういうことなのです。大事なことは継続一貫という事です。継続一貫。「継続は力なり」と言われますけれども、継続だけが堅い石に穴をあける。だから聞法ということは継続することが大事なのです。これは聞法に限らずどんなことでも継続することに成果が上がることがあります。ですからものごとを成し遂げるには才能が必要であるとか、運が良くて金と時間が揃わなくては出来ないと人は考えるのです。才能とか運とかいうのですがそうではないのです。継続がただ一つ原動力なのです。だから私の孫が就職した時にそのお婆ちゃんが言うのですね。「いいかね、石の上にも三年ということがあるから、とにかく続けるのだよ」と言っているのを聞いて、これは誰もが考える本当の言葉なのだなあとそのように思うのです。継続一貫ということが大事なのです。私も継続一貫したお蔭でここに立っているわけです。何しろ私が一番光照寺で古いのだそうです。後の人は皆辞めていかれた。継続一貫ということになると、とうとう会長という役に付かしてもらって威張っているのです。継続一貫ということが大事なのです。その次に「心源(しんげん)、もし(てっ)しなば、菩提(ぼだい)の覚道、何事か(じょう)ぜざらん」とあります。

 

A 何事か成ぜざらん。

 

つまり「思う念力岩をも通す」と、昔から私たちは修身の教科書で習いましたが、中国の漢の時代紀元前ですが、李広という将軍が猟に出て虎が寝そべっているのを見た。そこで李広将軍は弓の名人でしたので弓をきりっと引き絞ってその岩に当てた。岩にスポット矢が入った。良く見たら虎だと思ったのが石だった。後日、将軍がその岩を見てもう一矢打ったが石に入らなかった。それは「精神一到何事か成らざらん」というそれは菩提の覚道、仏の悟りですね。その悟りをついに悟ることが出来るのだと。そのような強い気持ちが大事なのです。だから『大無量寿経』にもどういうふうに書いてあるかというと、「たとい世界に満てらん火をも、必ず過ぎて(もと)めて法を聞かば、(かなら)ずまさに仏道を成すべし」と、『東方偈』の後ろの方にあります。又まだ他にもあります。

 

  たとい世界に満てらん火をも、必ず過ぎて(もと)めて法を聞かば、(かなら)(まさ)に仏道を(じょう)ずべし、

  広く生死(しょうじ)(ながれ)()せん。                『仏説無量寿経巻下』(『真宗聖典』五一頁)

 

親鸞聖人はこれを『和讃』にして、

 

  たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり       『浄土和讃』(『真宗聖典』四八一頁)

 

三千大千世界に猛火が吹いてもやり遂げずには止まない、という念力が遂に仏道を成就するのだ、という言葉があります。だから本当にそれは大事なことなのです。だからそういう強い気持ちが大事なのです。へなへなした人は仏法に向かないのですね。何事か成ぜざらん。

 

B いかに不信なりとも 

自己が分からない  

    鏡 → 教法

 

次に「いかに不信なりとも」、不信ということは仏法が分からないということなのです。仏法が分からないということが不信ということなのです。仏法が分からないということは『経典』の文字が分からないということではないのです。仏法が分からないということは『経典』が読めないということではないのです。『経典』がいくらすらすら読めても仏法は分からない。仏法が分からないことは自己が分からないことです。仏法が分からないということは自分自身が何であるかということが分からない。仏法というのは自分自身を徹底的に追求する法なのです。自分が何であるかが分かることが仏法が分かることなのです。自己が分かる為には何が必要であるかというかというと、鏡が必要なのです。この鏡を、教え、教法というのです。その教法は何と説いてあるかというと、まごころを持て。至誠心。あなたにまごころがあるのか。まごころを持てと説いた。あるいは定善・散善を行ぜよと説いた。定善とは正しい心を持ちなさい。散善とは善い行いをしなさい。つまり悪いことを止めて善いことをしなさいという教えが『観無量寿経』に説いてあるのです。しかし、私たちはその教えを実際実行してみるとそのまごころは自分の中から飛んでいく訳です。そして悪いことを止めて善いことをしなさいといくら言われても、なかなか善いことはできない。悪いことが止められない。これではいけないしっかり頑張らなくてはという。しかし頑張っても、頑張っても、自分が崩れていく。だから、もう私には仏法はむかないのではないかと落ち込んでしまうのです。こういう不信の日が長く長く続くのです。本当にこれは長いのです。落ち込んだり頑張らなくてはと言ったり、不信の日が長く続くのです。これは本当にそのことを理解して頂きたい。光照寺に来てもう三年通ったと言ったってなかなかこれは本当にそうだとは分からない。五年、十年いやもっとではないでしょうか。そのように時間がかかるのです。これを止めてはいけないのです。いかに不信なりともですね。

 

C いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり

 

 「いかに不信なりとも」、何が大事か。「聴聞を心に入れで申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり」とここに書いてあるように、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。ここが非常に大事なのです。聴聞を心に入れるとはどういうことなのか。まず 聴聞とは耳をすまして聞くことです。聞いたら聞きっぱなしにしてはいけない。聞いて考える。そして実行することが必要なのです。教えを聞く、聞きぬいていく。そして考える。考えるとはどういうことなのか。今の話は私においてどういうことなのかということを考える。我が身に引き当てて考える。考えただけではいけないのです。実行しなければいけないのです。実際自分の生活の中で実行することが大事なのです。聞・思・修といって実行することが大事なのです。実行とは何を実行するのか。それは勤行です。朝晩の勤行をするということが必要なのです。朝晩の勤行をすることは非常に難しい。難しいが、しかし、実行していくことが大事なのです。この実行は難しいのですよ。私も若い時から聞法しましたが、本当にこの勤行というのが難しい。八七歳ですが、まだ難しい。女房が御仏飯が出来たからあげてくださいという。私があげてくる。勤行をしましょうと女房が言う。女房が言わなければやれないというような者が話をしているのですから、私もこんな体たらくだから皆さんも決して恥ずかしく思ってはいけない。今日からでも帰って勤行をやって頂けたらいいのです。それを聴聞を心に入れるということなのです。

「御慈悲にて候うあいだ」とは何かと言いますと、御慈悲とは如来、弥陀の大悲方便なのです。御慈悲とは。如来のおはたらきだからお慈悲にて候。弥陀の大悲方便である。大悲方便とは具体的には回向である。回向とは向こうから与えられてくる。何を与えられるのかというと良き師、良き友なのです。良き師、良き友が、この道を行け。この道は間違いないといって教えてくださる。これは非常に大事です。この道を行け。一番良いのは親が子に教えるのが良い。親は信頼されているから。親が進んでいく。親が念仏し、子が念仏し、孫が念仏していくというふうに続いていくことが大事なのです。良き師、良き友が与えられている。それが方便なのです。しかしその方便はもう一つは、南無阿弥陀仏というおはたらき、本願の名号南無阿弥陀仏が「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。」『教行信証 信巻』(『真宗聖典』二二〇頁)という南無阿弥陀仏のおはたらき。こういうのが御慈悲にて候。しかし私たちは御慈悲だからじっと座っておれば御慈悲が頂けるのかというと、口をあけて待っていても御慈悲を頂けないのです。しかしそれはどうしてかというと、私の方で努力するということがなければ成功がないのです。他力の回向は頂けないのです。そこで聴聞を心に入れ申すということが大事なのです。有り難い信心の人というのは必ず一生懸命、忍苦の生涯があったのです。私の努力が必要。それが聴聞を心に入れ申すという。

次に「信をうべきなり」ということです。そうしたら必ず信を得るようになっているのです。信心というのは何かというと、自分が何であるのか。自分の姿に目が覚めて、如来の大悲に目が覚めるということです。自分に目が覚めて如来に目が覚めるということが信心。どういうふうに目が覚めるかというと本当に御恩知らずの私、恩知らずの私というそういうふうに目が覚める。親不幸の私。本当に親の恩、師の恩を知らない恩知らずの私と目が覚める。そうして申し訳ないことでございますと頭を下げるということが信を得るということなのです。そうして申し訳ないという事だけでなく、ありがとうございます。ありがとうございます、南無阿弥陀仏と念仏をする。そういうのを信をうべきという。得るということは、得ないことなのです。ああ、私は信心を得ましたといってつかむのではない。得るということは得ない。得ると思うは得ざるなりという言葉があります。得ざると思うは得るという事という言葉があります。得ないということはどういうことかというと、照らされるということなのです。照らされる。本当に得ることは照らされることです。そして照らされて私自身に目が覚める。「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども」と。本当に恥をしらない私。そういうことに目が覚めて一生造悪、一生悪を造って恩知らずの私と目が覚めるということが得るということなのです。信を得た姿なのです。信を得た姿は南無阿弥陀仏、申し訳ないことでございます。南無阿弥陀仏、ありがとうございます。そういうことが信を得た姿なのです。

 

無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう

『正像末和讃』(『真宗聖典』五〇九頁)

 

D ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり

 

「ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり」。これはどういうことかというと、それがですね、結局信心を得るということが仏道の中心なのです。だから信心正因と言われるのです。そうして仏道の成就というのは正定聚の位について本当に現実人生に頑張ることが出来る人。そういうのを信心を得るという。それではいかにして信心を得るかということが仏道の中心課題なのですが、その信心を得る方法、それを書いたものは『大無量寿経』ただ一つなのです。『大無量寿経』に信心を得る方法をどう書いてあるのか。それを本願成就文というのです。その本願成就文にどう書いてあるかというとこのように書いてあるのです。

 

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜


『仏説無量寿経巻下』(『真宗聖典』四四頁)

 

「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜」。これが信心を得る方法なのです。これが本願成就文、第一八願。これは『大無量寿経』にしかこういうことが書いてない。信心はどうやって得られるか。それはまず諸有衆生とは何かというと、諸有とは迷いが深い、諸々の有というのは迷い。迷いの衆生というのは我々。だから迷い深い私と目が覚めてることがまず一つ。(その)名号を聞き、(その)とは、良き師、良き友が讃えている、先生の讃えている名号、南無阿弥陀仏の教え、(その)名号を聞きそうしてそこに信心歓喜という目標が立つ。信心とは喜びなのです。歓喜。喜んでいる。信心歓喜。信心歓喜を信としましょうか。聞其名号を聞とします。聞によって信は得られる。聞かなければ信は得られない。信心を得る方法は一つしかない。これしかない。つまりその名号を聞いて信心歓喜なのです。その時に諸有衆生と目が覚めるのです。これが信心を得る方法なのです。だから仏法は聴聞にきわまるという仰せの原点はですね、本願成就文にあるのです。信心を得ることが仏法の成就なのです。仏法を成就するには聞法を励むより他はないのです。だから、ただ、聴聞一つである。ただ、と書いてある。ただ、とはこのこと一つである。他の方法はないのです。ただ、このこと一つ。それでは信を得たならばもはや聴聞は必要なくなるのであろうか。私は信心を得ました。もうこれで卒業。もう光照寺に行って聞法する必要はないというようになるのであろうか。決してそうではない。仏法は我が身に信が確立すればそれで終わりではなく、信の成立が仏法の始めである。本当に信が成立したらそこから仏法が始まる。だから信心とは卵からひよこになったようなもの。ひよこはもうそれで終わりではない。ひよこは、にわとりに成長しなくてはならない。やがて卵を産まなくてはならない。あるいは信心とはどんぐりのようなもの。どんぐりが芽をだして終わりではない。芽をだし、のびていよいよ教えの身に照らされて、いよいよ伸びて行かなければいけないのです。だから 本当の信心の人は最も聞法をする人なのです。だから信を得てから仏道が始まる。そこから仏法者の聞法生活が開始される。だから仏法は聴聞にきわまるということはそういう意味なのです。仏法者の生活の中心が聞法なのです。いよいよ聞いて聞いて聞きぬいていく。いよいよ教育を受けるもの、被教育者として聞法者として生涯を尽くすということが一番大事なことなのです。この二つを合わせて、「ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり。」このように結んであるのです。だから私たちもあの人はこの頃顔が見えないねと言われないように、いつも、ちゃんと真ん中で聞いておられるというように頑張って頂きたいと思います。それはあなた自分のことではないかと言われる。人のことのように言ってはいけませんね。私自身がそのようにさせて頂かなくてはと思う事であります。以上で終わります。

あとがき

 

 本冊子は平成二十九年六月十日、第十八回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。

「ただ仏法は聴聞にきわまることなり」というテーマでお話を頂戴しました。今回も『蓮如上人御一代記聞書』のお言葉をテーマにお話いただきました。

先生は本書にて、『仏法は聴聞にきわまるという仰せの原点はですね、本願成就文にあるのです。信心を得ることが仏法の成就なのです。仏法を成就するには聞法を励むより他はないのです。だから、ただ、聴聞一つである。ただ、と書いてある。ただ、とはこのこと一つである。他の方法はないのです。』とお話されました。

私たちは「ただ」と聞いて中々簡単に「ただ」に成りきれない問題をかかえます。その根底は自我の執着があり、打算と名利と利己的な煩悩そのものを抱えている自身だからです。しかし、そういう我が身を照らして大きな「いのち」の世界に目覚めてほしいと願っている如来の大慈悲心を感知していくのは聞法の功徳なのでしょう。幾多の努力や困難苦難を経ながらも、このこと一つに出遇った喜びの表白が「ただ念仏」に発せられるように、それと通じて、「ただ」の言葉に込められた深さを感じさせて頂きました。

 先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

 又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、護持会役員の淡海雅子様には多大な感謝を申し上げます。

合掌

 

平成三十年六月二十三日第十九回護持会総会にあたり   光照寺副住職 池田孝三郎