第19回  護持会総会法話 1.6.23 講師;佐々木玄吾先生(いずみ会館館主)

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(資料)

 『蓮如上人御一代記聞書』(『真宗聖典』八八三頁)

第一五七条

 一.「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。「仏法のうえより、世間のことは時にしたがい、相はたらくべき事なり」と云々

 

(板書)

一、仏法を(あるじ)とする

  仏法を主人として仕える

  仏は無上法の() 菩薩は()

 

二、世間を客人とせよ        

     世間は現実人生

     「生死即涅槃」

@  分をつくす

A  業をつくす

  私が直面しなければならない現実

   妻子

三、仏法を主とし世間を客人とせよ

     (先)    (後)

   「もし常に仏・法・僧の三宝を信奉せば生死に処して疲厭なかん」

 

四、仏法が先 世間が後

     身心柔軟  身心安楽

    

   ○大悲を行ずる(念仏をすすめる人)

 

 

おはようございます。毎回ここでお話をするので慣れて当たり前のような気持ちがしておりますが、本当にありがたいことだと思っております。皆様とご一緒に『蓮如上人御一代記聞書』の第一五七条を頂きたいと思います。それでは一緒に読んで頂きたいと思います。

 

一.「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。「仏法のうえより、世間のことは時にしたがい、相はたらくべき事なり」と云々

 

一、仏法を(あるじ)とする

 

蓮如上人が御晩年に周りの人たちにこういうふうに言って教えておられました。「仏法を主として」ここではひらがなで書いておりますがあるじというのは「しゅ」主人です。「しゅ」というのは動かない、じっとひとつの所に座っていて動かない。それに対して「世間を客人とせよ」。客人というのは出たり入ったりするのです。そういうふうに仏法を動かないものとして頂いて世間の方を客人、つまり出たり入ったりするものとせよと蓮如上人がまず言われております。

次に「仏法のうえより」というのは仏法を中心にすれば、それに基づけば「世間のことは時にしたがい」その時々の時世に従い、そして「相はたらくべき事なり」。それによって働いていくことが大事なのだと。そういうふうに蓮如上人が言われました。それに対してこれは元々は法然上人の言葉だと言われております。それが元です。法然上人の『和語灯録』という中にはこのように書いてあります。「常に煩悩は起こるなり」。煩悩というのは名聞・利養・勝他・貪欲・瞋恚・愚痴とかが煩悩なのですが、常に煩悩が起こる。起こるけれども「煩悩を客人とし 念仏をば心の主としつればあながちに往生をばさえぬ也」つまりここで法然上人は「念仏を心の主として煩悩を心の客人とせよ」と言われた。それが元であってそれが蓮如上人の所に来たら「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」とそういう言葉になって展開しているのです。そこで仏法を主とするとはどういう事か。

 

 仏法を主人として仕える

 仏は無上法の() 菩薩は()

 

仏法を主とするという事はどういう事かというと、「仏法を主人として仕える」ということです。その次にそのことは菩薩は法の臣という。つまり仏が主人であって私は菩薩として法の臣として仕える。つまり、「仏は無上法の王 菩薩は法の臣」である。臣というのは王様に仕え王様のことを大事にして、一所懸命仕える人をいうのです。臣というのはどういうものかというと、主君を持ってそれに仕えていく人を臣というのです。そして主君の恩に報いようとする。仏法によって私たちは先ほど歌にありましたように、本当に大きな仏法の恵みの中で喜んでいるわけです。そこで本当に良かったというもの、仏法に救われていったものはついに仏法の屋台骨を私が背負って立つ。そういう存在、それを臣というのです。皆さんは光照寺というサンガの中で仏法に遇って良かったといって喜んでおられます。そうすると、そこを支えるそういう人を臣というのです。仏法に尽くすというのは仏法を道具にするのではなくて、そこに私がただ喜んでいるのではなくて、親近、恭敬、供養といって、親しみ近づき頭を下げて教えに随順し、そして仏様の為に働く。仏法の為に働く。そういう事が大事なことだと言われております。先ほどの『正信偈』にもありましたように、「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」。唯よく常に如来の御名を称えて、如来の大悲弘誓の恩に報いるべしという。ただお念仏をいつも称えて南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称える生活をするようになる。そこに仏法を主として仕える臣としての姿があるのです。細川先生というのが私の先生なのですが、その先生が言われました。どのように言われたかと言いますと、「今日、日本人は臣という一字を失ってしまった。」臣という一字を失ってしまった。つまり臣は臣でも煩悩の臣になって、「名聞・利養・勝他」、良い大学に入ってちゃんとした就職をして結婚してそういうふうに自分の名聞・利養・勝他というものに仕える臣。煩悩に我が身を捧げてそれに尽くし、それに追い回されている。しかし、そこには満足もなく末通る喜びがない。これで本当に良いのであろうか。人間は本当に尽くすべき主人を持つことが必要なのではあるまいか。このように細川先生は言っておられます。問題はその主人なのです。主君なのです。自分が仕える主君、それによってその人の人生は決定していくのです。仏法を王として我が身を尽くし、一生を臣として仕える身となる。そこに人間として生まれた最上の喜びがあるのだ。道があるのだ。それが念仏道なのだ。こういうふうに話しておられます。又、細川先生の先生である住岡夜晃先生は「生命を継ぐ者は生命を捧げていく」、と言っておられて、我が身を仏法に捧げていくことが大事だと言われます。次に世間を客人とせよ。

 

二、世間を客人とせよ

     世間は現実人生

     「生死即涅槃」

 

世間とは何かというと、これは現実人生です。我々はこの現実人生から逃れられないのです。世間を客人とするというのはこの現実人生に仕えるという事です。ホテルのマネージャーというのは客を歓迎して「いらっしゃいませ」と言う。そして頭を下げて丁寧に部屋に案内をする。客が出ていった時には「ありがとうございました」と客を見送っていきます。客は変わる。客は時と所に応じ縁に従って変わる。そこでマネージャーが客にほれ込んでホテルを飛び出して客を追ったり客が多すぎると愚痴を言ってはならない。彼はホテルを主として勤務している。その主に仕える具体的な仕事の内容がマネージャ―です。客に奉仕する。それが世間を客人として仕えることなのです。仏法と世間というのは二つあるのではないのです。仏法と現実人生が二つあるのではない。真の仏法は現実人生に向かうままが仏法でなければならないのです。また現実人生を背負って仏法に向かう。そのものこそが真の仏法者である。二元論ではないのです。つまり「生死即涅槃」「涅槃即生死」と言われています。生死の大海それは世間、「生死即涅槃」。「生死即涅槃」は二元論ではない。世間とは生死海である。悲しみ、苦しみ、悩み、憂い、喜び、楽しみの波が次から次へと押し寄せて「生死の苦海ほとりなし」と言われている。この苦海に仕えるのは何かというと、私の分を尽くすという事です。

 

@  分をつくす

 

世間を客人として仕えるという事は私の分を尽くすという事です。それはどういう事かというと男は男とし、女は女とし、老人は老人としてそれぞれ自分の仕事を持ち自分の担当する分野において時に応じ、位に応じ、真心を持ってそれを果たし抜くことである。これが世間の事は時に従いあい働くべきことなりと言われるのです。自分の分を尽くす。年寄りは年寄りとして自分の仕事を一所懸命やるという事です。それが世間に仕える。

 

A  業をつくす

 私が直面しなければならない現実

  妻子

 

つまり自分のそれぞれの業があります。私たちは現実人生に業を持って生きている。つまり業というのは私が直面しなければならない現実です。その現実は一体なにか。私なら我が妻。自分の奥さん。それは直面しなければならない現実です。この奥さんと上手くいくことが大事なことです。それから子供。子供のことは背負っていかなくてはならないものなのです。この現実から逃避することなくまた反発することなく、この現実に仕えこの現実に我が身をぶち込んでそれをやり遂げていく。そこに業を果たすという事があろう。そこに最も逞しい生き方があろう。そういうふうに細川先生が言っておられます。その次に、

 

三、仏法を主とし世間を客人とせよ

    (先)    (後)

 

 仏法と世間が二つあるわけではないのです。仏法は仏法、世間は世間と別々のものではないのです。一つである。しかし仏法に仕えることがここでは主と言っているのですが、先なのです。まず仏法が先なのです。「世間を客人とせよ」というのは世間のことが後なのです。仏法に仕えることが先であり、世間に仕えることがそれによって起こる結果なのです。それは丁度磁石、方位磁石がありますけれども、それが北を指す時に他の一端は正しく南をさすように、私たちが正しく仏法を主として仏法に向かっている時に、そこに世間に取り組む姿勢、世間に仕える姿勢を与えられる。だから「仏法を主とし世間を客人とせよ」と仰せられたのである。親鸞聖人は『教行信証』の「信巻」の中にこういうふうに言ってあります。(『真宗聖典』『教行信証』「信巻」二三〇頁〜二三二頁要約)

 

  「もし常に仏・法・僧の三宝を信奉せば生死に処して疲厭なけん」

 

もし常に仏・法・僧の三宝、三つの宝です。三宝を信奉せば、「自ら仏に帰依したてまつる。自ら法に帰依したてまつる。自ら僧に帰依したてまつる。」とありますね。もし常に仏・法・僧の三宝を信じ奉仕して、三宝を信奉せば、生死に処して疲厭なけん。生死とは現実人生ですね。生老病死のこの現実人生に処して、疲厭とは疲れた、もう嫌になった。こういうふうに「もし常に仏・法・僧の三宝を信奉せば生死に処して疲厭なけん」もう疲れた、早く死んだ方がいい。あるいはもうこの人生が嫌になった、という事がない。嫌になったという事がないと言っております。「もし常に仏・法・僧の三宝を信奉せば生死に処して疲厭なけん」いつも頑張らなくちゃと言ってですね、若々しさをもって立ち向かう人となるのだと。私も八十八歳で年寄りだと自分でも思い、人も言うのですが、しかし、今日は朝、日野を七時二十七分の武蔵野線に乗って大宮に直接来るのに乗りました。ここで八時半に役員会があるのですからそれに間に合うにはもう少し早く来るのが本当なのですが、しかしこらえてもらって、遅れてきましたけれど、そのように元気を出してやってくることですね。その元気がどこからやってくるかと言うことなのです。それは仏法のおかげだと思うのですね。それなら早く死んだらどうなるかという事でもありますから自慢することではないのですが、私の母親が九十五歳まで生きましたから、生まれつきなものがあるのかなあと思ってもいます。これはいい言葉だと思っておりますが皆さんはどうでしょうか。「もし常に仏・法・僧の三宝を信奉せば生死に処して疲厭なけん」。私たちも実際に先ほど勤行の時に自ら仏に帰依したてまつると言いましたよね。自ら法に帰依したてまつる。自ら僧に帰依したてまつる。そういうことが本当に分かったならば、この人生に疲れたという事ではなくて、自分の分を尽くして頑張らなくちゃとなるのではないかというふうに教えておられます。その分を尽くし業を尽くしていく。そういうことになるのではないかと思います。

 

四、仏法が先 世間が後

 

仏法が先、世間が後。反対ではないのです。仏道というのは現実人生に取り組むことなしには存在しないのです。仏法をあるじとするというのは法然上人が仰せのように、南無阿弥陀仏をあるじとして仕える。念仏申すことなのです。本当にいつも念仏を申すという事が大事なのです。自然にそうなるのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言ってそれが非常に大事なことなのです。世間に尽くすという事は念仏の心を主体としてなされることです。世間がそのまま念仏の舞台である。「生死の苦海ほとりなし」と言われている。その無辺の生死海を尽くすほどの力を持って私の果たし遂げるべき仕事に取り組む。そこに仏道がある。「仏法の上よりは世間のことは時に従い、あい働くべきことなり」と言われる。これは決して仏法を中心として世間のことは適当に力を抜いてやれという事ではないのです。立場に応じ、その時世に応じ、力を尽くして働くこと、それが仏法なのです。しかし本当に仏法を主とするものは必ず身心柔軟なのです。

 

    身心柔軟  身心安楽

 

身心(しんじん)柔軟(にゅうなん)とは身も心も軟らかい。柔らかい。身も自分の心も軟らかい。そしてぽきんと折れるものではなくて身心柔軟、軟らかい。仏法を聞いた者の特徴は柔軟という事なのです。柔軟とは優しい、軟らかいのです。そして身心が安楽なのです。安楽とは非常に心が安んじていて楽しい。つまりいつも幸福なのです。そんなに一懸命尽くしているのだったらがちがちになるというようなことではなくて、非常に心が安定していてそして粘りがあって強い。ぽきんと折れない。幸福なのです。幸福とは自分の身に付いたものだから取り外すことが出来ないものです。くの幸せというものは取り外すことは出来るのだけれど、自分の身に付いた幸せは取り外すことができない。仏法が先、世間が後。そういう人は本当に幸せなのだ。三木清の『幸福論』を見てみると本当に幸福な人は他の幸福というものは服を脱ぐようにぬぎすてて、お金があるとか健康だとかあるいはそういうものは取り去ることが出来るけれども、その人の身に付いている幸せは取り外そうと思っても取り外すことが出来ない。その人自身が幸せなのだ。仏法が先 世間が後という人は身心が安楽、非常に幸せだと。粘りがある。安定している。そこに大悲を行ずるという事がある。

   

  ○大悲を行ずる(念仏をすすめる人)

 

大悲を行ずるという事はどういう事かというと、これも『教行信証』の中にあるのですけれど、つまりお念仏をすすめる人になる。自分の子供とか孫とかにお念仏の会に行って勤行を一緒にしようとか、そういうふうにお念仏をすすめる人を大悲を行ずる人という。私がいずみ会館館主と言いますが、館主というのは名前は主人ということで何か偉そうに聞こえます。館主という私の仕事は、雑草が出ますから庭をきれいにすることです。私の女房は一所懸命、畑を作ってジャガイモを植えたりして今はいっぱいズッキーニとか、木もあってキュウイが沢山でき、そういう世話をしています。そういうのが館主というのか管理人というか、そういうことをしているのですが、そういうことをしながらお念仏をすすめる。それはどういう事かというと、この前十七日の日曜日に子ども会をしました。そうしたらジャガイモを掘るという事で近所の人、私の近所のお母さんが三人、つまり三軒で、四人の幼児、小学生を連れて初めてきました。そして勤行本がありますので『嘆仏偈』を読んだり、『恩徳讃』を歌ったり、お念仏をしたり、お話を聞いたりしました。そしてジャガイモを掘って茹でて食べて美味しかったと言って、一所懸命に初めてきた人がそういうふうにしていました。実際には二十五名。子供が十人、大人が十五人の会を一週間前にしました。本当に近所の人にも一緒にお念仏をしましょうとすすめているのです。そういう人が大悲を行ずるのだと言われています。光照寺にこういうサンガがあって皆さんが中心になってここを護っていてくださるときに、次なる人を養成しないといけないのです。そういうのを総会の中で発表があると思うのですが、その中で力を尽くして仏法が先、世間が後。そして身心柔軟、身心安楽の人は大悲を行じて仏法弘まれ、と、力を尽くしていただきたいと思います。がんばりましょう。

 

あとがき

 

 本冊子は平成三十年六月二十三日、第十九回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。

「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」というテーマでお話を頂戴しました。今回も『蓮如上人御一代記聞書』のお言葉をテーマにお話頂きました。

先生は本書にて、『まず仏法が先なのです。「世間を客人とせよ」というのは世間のことが後なのです。仏法に仕えることが先であり、世間に仕えることがそれによって起こる結果なのです。(略)立場に応じ、その時世に応じ、力を尽くして働くこと、それが仏法なのです。しかし本当に仏法を主とするものは必ず身心柔軟なのです。』とお話されました。

私たちは「世間」を主としていることに行き詰まることが多々あります。本当に生きたここちもなく、現実に取り組んでいるということが顛倒の姿と仏眼のまなざしから教えられます。仏法を主として念仏申すことにおいて、本当の意欲を賜り、現実の諸問題に行き詰まらないで、現実人生を力強く歩む者となって欲しいという本願のお心を信受して歩んでいきたいと感じさせて頂きました。

 先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

 又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、護持会役員の淡海雅子様には多大な感謝を申し上げます。

合掌

 

二〇一九年(令和元年)六月三十日

     第二十回護持会総会にあたり   光照寺住職 池田孝三郎