「浄土真宗に遇う」  櫟 暁

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師と出遇う

 自分の頭でどれだけ考えても、生きる意味がわからない。まったくいきづまってしまっていた私が、不思議なご縁で曽我量深師の教えを受けて、ふさぎもつれていたこころが開けてきたのです。師は、「念仏して自分の妄念から解放されよ」と教えられただけでなく、身でたすかっている事実を証明しました。疑い深い私が、疑うことのできない真の明るさを師の姿に見て驚きました。それは混迷とか混乱のひとかけらもない姿でした。
 私が浄土真宗の門徒に加えていただいたのは、論理的な思索力が乏しく、生きることに自分のもちあわせた判断や推理がなに一つ間に合わなくなってしまったことが縁になって師に遇ったという、不思議な事実から始まっています。
 師の精神生活の中心は、南無阿弥陀仏である。この言葉が師匠を明るくしている力の源泉であることが見えてきてから、私はその南無阿弥陀仏の意味を聞かざるをえなくなりました。

仏の誓約

 なぜ、この小さな言葉が人を無条件に明るくするのか、その道理が知りたくて『歎異抄』をすこしずつ読みだしました。だが、難しくて歯がたちません。たすかった人の言葉は、常識を超えているから、頭では理解できないのです。師に導かれ励まされて、やっと私は「誓願」とは、私を対象にした仏の誓約であることがうなずけはじめました。君に念仏させねば自分は仏にならないという誓約です。私はその誓約の対象になっているのです。誰からも見捨てられている自分だと悲観していた私が、私を信じ、私を相手にして本願を建てておられる仏がいらっしゃるのだと気付いたとき、私はたいへん感動しました。そんなことは今まで思ってみたこともなく、私を理解してくれる相手を求めても、裏切られ捨てられてしまったとしか思えなかった私が、ここにきて全く質の違った力を得たのです。
 君が生きている限り、私は君のよりどころとなろう、それが私の生きがいだという声が、私の背後から聞こえてきたとき、仏の「慈悲」とはこれだなと思いました。ここで、劣等感の塊みたいな私が、前向きに生きられるようになりました。人の目をぬすむようにして、心貧しい私生活をほそぼそと続けるより外なかった暗い人間が、大地の温もりを感じて明るく歩めるようになったのです。

うなづけない

 そのころ、蓮如上人の『御一代記聞書』を読む機会に恵まれました。その第六条には法然上人の短歌が出ています。

月かげの いたらぬさとは なけれども 

   ながむるひとの こころにぞすむ

 月があかあかと照っていても、心の中が闇夜同然では、自分の足元が見えず、世の中がありていに見える筈はありません。師によって、この歌の心を教えられ、闇を闇と知らずさまよい歩いていたこの私が、仏の光明に照らされていたのだと気付かされました。ここで、自分自身の分限のままに、照らされて生きる歓びが感ぜられはじめました。

 このようにして、私は『歎異抄』第一条の

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をはとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。

までは、なんとかそのこころが受けとめられるようになりましたが、このあとの、

そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

がなかなかうなずけません。自分が「罪悪深重」だとは思いたくない。これでは、大きな鎖で繋がれてしまって、身動きがとれなくなるような思いがして、どうにもならなかったのです。

無限のはたらき

 こんな惑いを感じながら、第二条の「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と、宗祖親鸞聖人が我が身をさらけだしておられる言葉に気付いて、やっと自分を縛っているのは自分自身であることに気付きはじめました。善悪を知っているように思って、たかあがりして自分を縛っている我が身の愚かさが見えるようになってきました。すんなりと仏に頭が下がらないしぶとい自分、いつもこのしぶとい自分に言葉となってはたらきかけ、この痛むべき我が身の現実を「罪悪深重」と知らせてくださる。私にとって、この南無阿弥陀仏が大慈悲であります。常に新しく私を呼び覚ましてくださる無限のはたらきであります。ありがたいことです。

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仏様とは

  1. 仏様とはどんな人か。

    仏様は「われは南無阿弥陀仏と申すものである」と、名のっておいでになります。

  2. その仏様はどこにおられるか。

    われを南無阿弥陀仏と念じ称える人の直前においでになります。

  3. その仏を私たちが念ずるには、どのような方法がありますか。

南無阿弥陀仏と一念疑いなく、自力のはからいを捨てて、静かなる心をもって「仏願わくは、この罪深き私をたすけましませ」と、念ずるのであります。これは、だれでも、どこにいても、いつでも、悲しい場合でもうれしい場合でも、たやすく自由に仏を念ずることができます。この念が現れる時、いかなる煩悩妄念が襲ってきても、内心の平和は絶対にやぶれません。これを真の救済と申します。

(『曽我量深選集』より抜粋)

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