講題 「佛教における人間形成」

 ただ今紹介に預かりました佐々木玄吾と申します。去年は「佛教とは何か」というお話をいたしました。それが冊子になりました。私は自分が話した話がこのように冊子になって出てきたのは初めてです。光照寺で冊子にして頂いたというのは、非常に名誉なことで嬉しいことだと思います。
 冊子の最後(第四回護持会総会法話 七頁)を読んでみましたら、「私の先生は三つ言われました。聞法・勤行・念佛」それが大事だと言われたとあります。私はこれを思いますに、先ほども佛壇のご本尊の前で皆さんと勤行をいたしました。そして念佛を申しました。あるいはこうやって聞法をすることが行われております。お話を聴きみのり御法を聴く、それから勤行をする、南無阿弥陀仏とお念佛を称える。その三つのことが私の亡くなられた先生の遺言だったのだなあとつくづく思います。
 はじめは勤行というのは形式的で「念佛一つで事足りる」ならば勤行にこだわることはないのではないかと思うわけです。本当はそうなのですけれども、そういうことが手がかりでないと、先ほど歌を歌いましたように「みほとけはまなこ眼を閉じてみ名よべば さやかにいます わが前に」というような、みほとけと私が一体となって生活できるようにはならないのです。はじめは形式的な、あるいはそれをしなくてはならないというふうな一つの条件になっていて、うとうとしいのです。しかし、最後はやはり佛様と私達が一つになって、本当にみほとけに南無阿弥陀佛とお念佛をすれば、みほとけが「笑みてぞいます わが胸に」とにっこりと笑って私の胸においでになる。南無阿弥陀はいらっしゃると先ほど歌いましたような関係にならしていただくのです。やらなければいけないということよりも、自然に生活に現れてくることになるわけです。そうなって初めて本物になっているわけです。
 今回は、どうしたらそういう本物になれるのか、そういうお話をしたいと思ってやってきました。題は「佛教における人間形成」といたしました。人間形成とは本当の人間ということです。真の人間としておきましょう。

1.人間形成 (真の人間)

 アメリカの大統領にリンカーンという人がいます。第十六代大統領で、この人は貧しい農民の子供として生まれ独学で弁護士になり、最後は大統領となりましたが、十六代大統領を全うし十七代になったとたんに凶弾に倒れました。奴隷解放を宣言し「人民の人民による人民のための政治」という演説を行い、アメリカの民主主義の基礎を確立した人です。
 彼は非常に優しく愛情深い人として有名です。ある時、ある人が愛情深いリンカーンに就職を頼みに来ました。そうしましたらリンカーンは断りました。傍にいる人たちがリンカーンに、困っている人が来て就職の斡旋をしてくれと頼んでいるのに、どうしてあなたは断ったのかと聞きました。そうしましたらリンカーンは言ったそうです。あの人は顔が悪い。だから断った。人間四十歳にもなったら今までの生活が顔に表れてくる。だから顔の悪い人はいけないと。それ以来、我々はこれが教訓になって「四十になったら顔に責任をもて」と言われています。私達はどういう顔になっているのか鏡でよく見て頂きたいと思います。
「四十になったら顔に責任をもつ」
 四十になったらもう本当の人間形成を遂げなくてはならないとリンカーンは言ったわけです。私の先生である細川先生はいつも言われました。「佛法を聴いていったらいい顔になりますよ。美人になりますよ」と。そこで佛法における人間形成とは、聞法・勤行・念佛を続けていったら顔に責任を持つ人になり良い顔になって、本当に人間形成ができるのだということになります。
 蓮如上人もその点を具体的に言われる方です。『真宗聖典』を皆さん持っておられるわけですが、聞法とは読書でもあります。蓮如上人が「ほんぞん本尊はか掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」(『聖典』八六八頁〈六九〉)と言ってらっしゃいますように、『聖典』を傍から離さないで聖教は読み破るほど読むことが大事です。私のこの『聖典』は新しいわけですが・・・。 本当はいつも鞄に入れ旅行に行くにも鞄に入れて自分から肌身離さず傍に置き、一生教えて頂く聞法の基礎にするわけです。私のもう一冊の聖典はいたんでいます。読み破ることが大切なのです。

『聖典』の八九三頁(二一〇)に蓮如上人は言われております。
  「信じじょう治定の人は、たれ誰によらず、まず、みれば、すなわち、とうとくなり候う。これ是、その人のとうときにあらず。ぶっち佛智をえらるるがゆえなれば、いよいよ、ぶっち佛智のありがたきほどを存ずべきことなりと云々」

 顔を合わせただけで、この人は尊い人だと一目みればわかる。それは、その人が生まれつき尊いということではないのです。佛様の智慧を得られたならば佛智の有り難きことで尊い顔になれるのだ。このように蓮如上人は言われています。そこでそれはどんな顔か。優しい、目が優しい柔軟な顔と言われております。それが人間形成だと蓮如上人は言われております。信心を本当に得たならばそのような顔になるのです。それで今度はそういう信心治定の人とは信心の人になるということであり、蓮如上人はその方法を言われております。

2.信心の人になる方法

「みれば、すなわち、とうとくなる」にはどういうふうにしたらいいのか。このことは今までにも何回もお話いたしましたが、蓮如上人の御文第二帖目十一通(七九〇頁)に五重の義というところがあります。そこに書いてあります。

  「ごじゅう五重の義をたてたり。一つには宿善、二つにはぜんじしき善知識、み三つにはこうみょう光明、よ四つには信
   心、いつ五つにはみょうごう名号。このごじゅう五重の義成就せずは往生はかなうべからずとみえたり。」

 往生とは人間として前進する、あるいは本当に生き生きと生きることです。そういう本当の人間形成を遂げた人となるには、五重の義がないならば往生がかなうべからずと、蓮如上人は言われております。絵に描いてみますと、もとになるのはしゅくぜん宿善です。宿とは昔から積み重ねられたぜんこん善根、つまり祖先の土徳や血筋、そういう宿善がないとなかなか佛法における人間形成は出来ないと言われています。一つには宿善、二つには善知識。善知識とは先生ということです。よき師よき友といわれる人に出会うということが大事である。そして三つには光明。その善知識の教えを聞いて、そしてその教えから自分自身が照らされて自分自身が何であるかが分かる。四つには信心。五つには名号。南無阿弥陀佛です。

名号
信心
光明
善知識
宿善

 そういう順番で重なっていると蓮如上人は言われております。「五重の義成就せずば往生はかなうべからず」。このことを現代的に言われた方が亀井勝一郎です。亀井勝一郎の著書『愛の無常について』、これは絶版になっておりますが、その中で人間形成ということを言っております。亀井勝一郎は人間形成を人間生成と言っております。どういうふうにして人間は一人前の人になるのか。そういうことを現代的な言葉で亀井勝一郎は言っております。

亀井勝一郎著  『愛の無常について』  
 人間生成
     一、考える
     二、迷う
     三、かくあれかしと願う一念
     四、出会い
     五、自分の言葉を持つ 
 
 自分とはなにか。神とは、死とは、社会とはなにか。そういうことを人間は考える。「人間は考える葦である」とパスカルは言っていますけれども、人間は考えます。私はこれでいいのか考える。そうして次に迷う。「人間は努めている間は迷う」とゲーテも言います。そうして、かくあれかしと願う一念が発生する。是非とも本当に人間形成を遂げたいと願う一念というものが人間の心の中で起り持ち続けるということが大事なのです。考え迷い是非とも信心の人になりたいと思う。それがないと出来ないのです。そうして亀井勝一郎は、遂にそこで始めて出会い・邂逅ということがあるのだと言います。それが善知識との出会いなのです。親鸞聖人はさんざん迷い、二九歳で法然上人に出会われました。それが宿善開発して善知識に会うということです。亀井勝一郎は出会いにより遂に自分の言葉を持つということになると言います。自分の言葉とは何かという、それは南無阿弥陀佛という言葉が自分の言葉となる。善知識に出会い遂に照らされて名号となる。名号それが南無阿弥陀佛。それが本当の人間形成です。信心の人になる方法です。
          名号「南無阿弥陀佛」 私の言葉となる。

 そこで考えてみます。宿善とは何か。逆に考えて見ますとこの出会いが善知識です。自分の言葉を持つというのが名号です。そのまえの三つが宿善にあたります。

一、考える            ・・・ 宿善
二、迷う
三、かくあれかしと願う一念
四、出会い    ・・・・・・・・・・・ 善知識
五、自分の言葉を持つ・・・・・・・・・・ 名号

 そこで私達は自分の成長の過程においても、考え、迷い、かくあれかしと願う一念という長い混沌の時期に耐えて遂に、出会うということが大事なのです。先生に出会う、よき師、よき友に出会う。ある人は先生に出会うということは道の半ばではないかと言いました。そうではないのです。先生に出会ったというのは道の全部に達したようなもので、善知識に出会うということは非常に大事なことです。きん金のわらじ草鞋をはいてでも善知識に出会いなさいと言われています。それは何時やったらいいのか。何時ごろ出会って名号・念佛一つで事足りるというふうになるのかというと、四十が目標なのです。私達は歳をとって手遅れです。だから急ぐことが大事です。もう一度振り返って善知識というのはどういうことを教えているのか、善知識の教えは何か考えてみましょう。
 善知識(よき師、よき友)の教えとは聞法、勤行、念佛です。

善知識(よき師、よき友)の教え
聞法、勤行、念佛
いのちがけで聴け

 私達はこうして聞法しております。法を聴くということは命がけで聴けといいます。そういう話はいっぱいあります。『歎異抄』(第二章)には「しんみょう身命をかえりみずして、たずねきたらしめたもうおん御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。」(『聖典』六二六頁)と『歎異抄』にありますし、「たとい大千世界に/みてらん火をもすぎゆきて/佛の御名をきく人は/ながく不退にかなうなり」(『聖典』四八一頁(二九))と『和讚』にもあります。
 「いのちがけで聴く」そういうことを善知識は教えているのです。いのちがけで聴く。最近いのちがけで聴くということを浄土真宗で言わなくなったのです。いのちがけで聴くとはなんなのか。それは自分が命としているものを投げ出して聴く。何を命としているかというと、一番私達が命として大事にしているのはお金ですね。お金を使って聴くということはいのちがけで聴く。こういう瓦懇志の時にはどんどんお金を出す。光照寺が瓦懇志の成績がいいということは、いのちがけで聴いている人が多いのでしょう。
 その次に大事なものは時間です。時間がないといいます。時間を投げ出して聴く。忙しい。他にもやることがいっぱいある。しかし自分の時間を聞法に使う。泊りがけで聴く。ここらで一時間聴いて信心決定して念佛し人間形成できました、というのでは足りないのです。泊りがけで聴く。本山に上山させていただき聴く。泊りがけで寝食をともにして聴いていくということは非常に大事なのです。先ほどご住職が推進委員の話をされましたが、 どんどん推進委員が出て京都に上山して泊りがけで聴く。光照寺もこういうところがいのちがけで聴くになりますかね。そういって私もお参りさせていただきましたが、これは一泊二日で少ないのです。昔、赤尾のどうしゅう道宗という人は、やっぱり富山の奥深い谷から山科の本願寺まで行って、七日間かけて聴かれました。忙しかったでしょうけれど。そういうのを命がけで聴くという。これは積極的聞法です。
 もう一つは勤行ということを善知識は言われます。どう言われるかと申しますと、「五年十年聞法する人が朝晩の勤行を怠るようでは言語道断である」と私の先生は言われました。皆さんはもう五年十年以上でしょう。宿善に恵まれている。ところが皆ぬるま湯に入ってマンネリ化して、佛法はこんなものだろうと思っている。ところが先生は「五年十年聞法する人が朝晩の勤行を怠るようでは言語道断である」と言われ勤行を非常に大切にされた。私は小学校に勤めていましたが、そう言われるのだからしなくてはならない。言われるから忠実にそうしなくてはならない。忠実にするのですからいいようだけれども、足りないのです。つまりそうしなければならないというところに、そうしたらきっと人間形成が出来て私も尊敬され顔も綺麗になり立派な人になると取引勘定でやったのでは、勤行といっても真心がないのです。そうしなくてはならないという勤行。そうしなくてはならないと善知識は言われるのですが、いつの間にかこういうのが自然になり、そうせずにはいられないとか、あるいはそれらが身についてしなくてはならないのではなくみほとけと私が一体の感情になる。これが大事なのです。
 妙好人という人はその点を非常によく言われます。たとえばここにご本尊があります。四国の香川県に讃岐の庄松という方がおられましたが、お参りに行って佛壇に花が飾られ灯明がありお佛飯があり綺麗に荘厳されていますと、喜んで「この佛様は肥えてござる。一杯たらふく食べられて」と。それから、お花が枯れてお供えもないと、「この佛様は痩せてござるのう」と言われたと聞きます。これは自然な感情で、心の交流があるということなのです。そういうのでないと続かない。義務でやらなければならないと思ってやってみてください。そうすれば必ず続かなくなる。「ああ、こんなにしんどい事はもうやめた。しかし、そうは言っても念佛一つで助かる。南無阿弥陀佛と言ってまけとけ」ということになってしまうのです。
 ところが自然に心の交流ができるとどんな時も、困った時、悲しい時、嬉しい時、悩んでいる時それが南無阿弥陀佛と念佛の種になるのです。そういうことができるようになることを教えておられるのです。私もこの頃、「朝つとめ欠かさじと嗜むべし」が実行できるようになりました。

3.信心念佛の人の働きかけ

 今日は私は信心念佛の人はどういう働きをもっているのか、そういうふうになったらどういう働きをするのか。信心念佛の人の働きかけというものをお話します。

       (1)家庭の成就  
  親子 しつけ  夫婦「敬と愛」
@ 何でも食べる
A 合掌できる
B 友達と遊べる 

 信心念佛の人は先ず家庭の成就をします。夫婦というのが家庭です。つまり夫と妻、男と女が夫婦になって互いに「敬と愛」尊敬と愛情を持って、お互いが良かったという人間関係を成就する。それが一つ。そして親子です。親子というのは子供をしつけるということが非常に大事なのです。子供のしつけは小さければ小さいほど言いといいます。生まれたその時から直ぐにしつけることが大事なのです。ルールがあるということをしつけるのです。子どもたちがこれからの信心念佛者になってもらわなくてはいけないのです。
 どうしたら伸びてゆく子どもになるのか。私の先生はそのことを考えて保育園をつくられました。そこで保育園を経営されて、将来伸びていく子どもは大体どういう特徴があるのかを言われました。そこで私は錬成会や子ども会をしました。光照寺でも住職にお孫さんができ子供会をやられるというので私も大賛成で、大いに頑張って欲しいのです。
 子供会をやる。子どもにはどういうことをどういうようにしつければ将来伸びていくのかということです。それがやっぱり働きかけです。

@何でも食べる。好き嫌いせずに食べるということが大事です。色々な種類のものをおいて、食べているのか見ていることが大事です。またそういう料理を作ることが大事です。
Aそれから合掌できる。ほっといたら合掌しません。本当に手を合わせて「我今幸いに頂きます」と言って食べる。また佛様にお参りをして食べる。そういう子どもを育てたら間違いない。年寄りの使命は子どもを佛前に連れて行くことです。若い人は自分が忙しいからなかなか余裕がありません。しかし年寄りは余裕がある。ゆとりがある。私などはゆとりがあるから佛様にお参りできるのです。そうすると孫がついて参る。子どもを合掌できる子にしたい。それは伸びていく子どもの特徴です。
Bもう一つは、友達と遊べる。ひきこもらないで誰とでも遊べる子どもは伸びていきます。

 歳をとった人の大事な使命としてこういうことはできると思います。花をあげ、お佛飯をあげ、やらなければならないから佛壇に参るのではなく佛様と自分との心の交流が出来た年寄りは、自然に子どもを佛前に連れていくようになるのではないでしょうか。

      (2)職場の成就
            仕事のプロ
            ピカイチになる

 次に職場の成就です。仕事を持って世の中と接触しています。仕事のプロになることが大事です。専門家になる。私は今日は、広島の築道さんという篤農家の方とやってきました。築道さんの作られた米は美味しいと言います。それは考えてあるからです。水のやり方、肥料のやり方、そして乾燥の仕方とか一連のプロとして考えてあるから、その米は美味しくなる。仕事のプロ、家庭に入れば主婦として家事のプロにならなければいけない。私の家内は結婚して四十五年になりますが家計簿をつけています。去年の今はどんなことをしていたか、十年前はどんなだったのか家計簿を見ればわかります。それぞれに役割があります。たとえば学校の先生でしたら教材研究で、しっかり相手の心理を理解しどのような教材をそれにぶつけたらいいかということを研究して、あの先生に習うと学力がのびた、勉強が面白くなった、というようになる。これらも信心の人の働きかけです。職場でピカイチになるといいます。

      (3)近所の成就
             向こう三軒両隣

 次は近所の成就です。本当の人すなわち徳のある人がいたとします。そうすると近所が成就するのではないか。近所とは何か。向こう三軒両隣。その人たちと仲よくやっていけるというのが非常に大事です。信心の人は、だから挨拶をする、美味しいものを貰ったとか旅行に行ってきたとかした時、あげられる近所がないのでは困ります。買ってはきたが誰もあげる人がいないのでは近所の成就になりません。

      (4)社会の成就
             世の中安穏なれ、佛法ひろまれ

 そうして次は社会の成就です。戦争があって死ぬ、悲惨なことです。佛法者としてどういうふうに社会に働きかけたらいいのか。世界平和ということが問題になっているのですが、念佛者という人はどのように社会に働きかけたらいいのでしょうか。それははっきりしています。親鸞聖人の『ごしょうそくしゅう御消息集』で言われています。
 「世の中安穏なれ、佛法ひろまれ」(『聖典』五六九頁)と言われています。世の中安穏なれとは平和ということです。世の中が安らかで穏やかであってほしいという平和への祈り。誰もがそう思います。政府は、世の中安穏なれと願ってイラク派兵をしています。世の中安穏なれ、佛法ひろまれ。世の中が安穏になる為の方法は佛法がひろまることです。光照寺のモットーは「佛法弘まれかし 念佛よ興れ」です。平和への願い、それは佛法がひろまるほかには本当の平和の成就はないのです。そこで私達にこうした目覚めた人になってほしい、そして、「世の中安穏なれ、佛法ひろまれ」という願いによって世の中が安穏になるようにと親鸞聖人が言っておられます。聖典の『御消息集』という中に書いてあります。
 本当に人間形成ができた人、信心念佛の人は、その願いに生きる。最も根本的に世界平和に貢献するということがあります。ということを考えますが具体的には一番大切なことは何か。

4.働きかけのためのエネルギー

 こういうことをするためにはエネルギーがいります。話はわかった。あなたの話はわかったがあなたがやってくれ。自分はへとへとでやれない。それでは悲しい。このエネルギーはどこからもらうか。それを前進し成就しやっていく力はどこからもらうのか。
 その力の源泉、源、それがこれなのです。その力の源、成就していく前進力。エンジンがかかってガソリンをもやして前進していく。それはやはりこれにかかっています。

聞法 勤行 念佛 

 初めはやれというからやるという他人任せの聞法・勤行・念佛もいつのまにかそうすることが一番自分の生活に自然だとなった時に、こういうことが成就するエネルギーとなります。皆さんどう思われますか。私はそう思います。以上で終わります。




あとがき

 本冊子は平成十六年五月三十日、第五回護持会総会における佐々木玄吾先生のご法話の記録です。

 佐々木先生には毎月当寺で開かれている聞法会「大経の会」に隔月にご出講いただき、ご法話を賜わっております。そして当寺の毎年の護持会総会でも第一回目から連続してお話を戴いておりますが、この様な冊子として発行するのは、前回分からで今回が二回目となります。これは護持会役員の淡海雅子様がご法話テープを原稿に起こして下さった賜物です。

 前回の「佛教とは何か」に引き続いて、今回は「佛教における人間形成」と題し佛教を通して、真の人になる、信心の人になるについてお話されました。

いま日本は平和国家と云われていますが、新聞には連日人の命に関わる生なましい事件が伝えられており、それは戦争がないだけの平和であって弱者には生活しづらい、不安な環境が出来ている様に小生には思われます。

今日の朝刊にも家庭内暴力による殺人事件が報道されていました。親が子供に手をかけた動機が書かれていましたが、ごく些細な行き違いが徐々に拡がって会話が失われ、親子が信じ合えない程の葛藤に至ったのでしょう。どうしてそこまで、何でと信じられない遣るせない気持ちになります。

 先生のお話を本冊子でいま読み返してみますと、信心念仏の人の最初の働きかけが家庭の成就にあるとあります。念仏により結ばれた夫婦の関係そして親子の関係について話されておられます。夫婦親子がそれぞれ尊敬と愛情をもった人間関係で結ばれる基本が出来上がると、さらに職場の成就へ近所の成就へと発展し安らかで穏やかな社会が成就されるとあります。最近の事件の背景には親子の切り離された姿が見え隠れしますが、事件を自らの環境に置き換えたとき確信を持って否定することの出来ない自分に慄かされます。

基本である家庭の成就が出来なければ、今の不安定な環境を除く社会の成就はおぼつきません、それにはまず念仏一筋の生活に突き進むことが必要と教えられました。理想とされる四十歳はとうに過ぎあまりにも歳を取り過ぎましたが、残された余生の老骨に油を差しながらでも聞法・勤行・念仏につとめなければと思う次第です。

 最後になりましたが、ご多用のなか原稿に目を通して下さいました佐々木先生、ならびに本文を纏めて頂いた淡海雅子様に厚く御礼申し上げます。

    平成十七年五月二十九日

    第六回護持会総会にあたり   光照寺護持会会長 山田 恒

あとがき

今日は、物質的には満たされた世の中で、コンビニエンスストアに代表されるように、二十四時間、欲しいものがいつでも、どこでも手に入れることができるという大変便利な世の中であります。一方、物質的には満たされていても、少子高齢化、育児ノイローゼ、幼児虐待、突発的(短絡的)殺人、等々の様々な諸問題を抱えた世の中でもあります。

また、国内はもとより、国外でもいずれ底を尽くであろう、残り少ない石油や食料、自然といった地球資源をめぐる利権争いによって、核戦争、IT戦争という悲劇への秒読み状態にあり、世界は大変な緊張関係にあるといえます。

表面的明るさが強調される世の中にあって、物心両面が満たされた現実ではないことを深く認識することが大切だと思います。

一昔前であれば、閉塞した世の中を憂い宗教に依り処を求めたのでありましょうが、現代においては宗教というものに対する疑念や嫌悪感が漂い、科学偏重主義によって、人間知が唯一確かなものとして肯定される社会状況におかれています。また、仏教においては、学問仏教に執持していたり、社会的職業分野に位置されている中で、真の人間教育(教えに育まれる)という、人間知を超越する信心の教育活動にブッディストが惰慢してきた結果が、現代の様々な社会問題を生み出すことにつながっているのではと思います。

 本書は、年に一度開催されます、光照寺護持会総会における佐々木玄吾師のご法話を活字として記録させて頂いたものです。

 先生は教職生活を定年まで勤められ、現在、広島県北広島町(旧豊平)におきまして念仏道場の道場主としてご活躍されています。又、当寺の責任役員という重責を担い、隔月の「大経の会」に講師としてご出講頂きお育て賜っております。今回は昨年に続き二冊目の法話冊子を刊行するに至った次第です。

 先生は「是非とも本当に人間形成を遂げたいと願う一念というものが人間の心の中で起り持ち続け、考え迷い是非とも信心の人になりたいと思うことが大事で、善知識に遇い、南無阿弥陀仏が自分の言葉となり、聞法、勤行、念佛が自然にできることが真の人間成就」とご教授下さり、丁寧なご法話で体に染み透る感覚を覚えました。

 先生にはご多忙の中、原稿に目を通して頂き、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

 又、ご法話のテープを原稿に起こして下さいました、役員の淡海雅子様、あとがきを執筆して下さいました会長の山田恒様に多大な感謝を申し上げます。                                                          合掌

平成十七年五月二十九日

    第六回護持会総会にあたり 光照寺副住職 池田孝三郎


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第5回護持会総会法話 04.5.30  講師;佐々木玄吾先生(豊平道場主)
翻訳について
中国語翻訳要約版(訳者:花永紅)
英語翻訳要約版(訳者:Goto Geejoe)
韓国語翻訳要約版(訳者:柳鍾順)